出自と平陽の守り
- 聶豹は字を文蔚といい、吉安永豐の人。正徳十二年(1517年)の進士で、華亭知縣に任じられた。溜池を浚えたので生業に復した民は三千余戸にのぼった。
- 嘉靖四年(1525年)、召されて御史を拝し、福建を巡按し、蘇州知府に出た。喪で帰り、平陽知府に補された。山西はしきりに寇に襲われ民に安住の地がなかった。豹は富民に銭を出させ、罪の疑わしい者には贖わせて萬余金を得、郭家溝・冷泉・靈石の諸関隘を修め、郷勇六千を訓練して守らせたので、寇は退いた。
- 廷議は豹を兵に通じた者とし、給事中の劉繪と大學士の嚴嵩がともに推薦したので、陜西副使に抜擢され潼関に兵を備えた。大計の拾遺で、言官が平陽での豹の着服を論じ、大學士の夏言もまた豹を憎み、捕らえて詔獄に下し職を落として帰らせた。
兵部尚書としての虚飾の報告
- 二十九年(1550年)秋、都城が寇の害を被った。礼部尚書の徐階は豹が華亭を知ったときに取り立てた士だったので、豹のために冤を訴え、その才は大いに用いるべきだと述べた。ただちに召されて右僉都御史・順天巡撫を拝したが、赴任しないうちに兵部右侍郎に抜擢され、ついで左侍郎に転じた。
- 仇鸞が宣府・大同の兵を調えて入衛させることを請うと、豹は四つの懸念を述べ、宣大を固守すべきで、宣大が安泰なら京師も安泰だと言った。鸞は怒って豹の過失を窺ったが得るものがなく、そのままになった。
- 三十三年(1554年)、翁萬達を兵部尚書に召したが着任前に卒し、豹が代わった。防秋の措置を奏上し、また京師の外城を増築することを請い、いずれも許可された。
- この年の秋、寇が大挙して山西に入り、総兵官李淶の軍を壊滅させ、二十日間掠奪して去った。総督の蘇祐は逆に大勝と報告し、巡按御史の毛鵬に暴かれた。上奏が兵部に下されると、豹は「寇に掠奪されたところはあるが、我が軍の斬獲は損害を上回っており、まことに上元の加護、陛下の御威光の致すところ。吉日を選んで祭告し、功を論じ賞を行うべきです」と述べた。帝は喜び、位を進められ子を任官された者が数十人。豹も太子少保を加えられ、錦衣衛の世襲千戸に廕された。京師の外城が成って太子少傅に進んだ。
- 南北からしばしば勝報が奏され、また諸辺の功をまとめて奏するたびに、豹はおおむね功を神明の加護に帰し、祭告と行賞は初回どおりとした。豹も太子太保に進んだ。
失脚と学問
- 当時、西北の辺境はたびたび寇に遭い、東南では倭もまた起こり、急報が日に何度も届いた。豹はもともと臨機応変の才がなかったが、大學士の嵩と豹は同郷であり、徐階もまた政府に入っていたので、豹は帝に大いに頼りにされた。
- 久しくして寇の害は日に厳しくなり帝は深く憂えたが、豹はついに何の策も出せず、条奏はすべて形式だけだった。帝は次第にその短所を知った。侍郎の趙文華が七事を陳べ、致仕した侍郎の朱隆禧が福建を巡視する大臣を置き海辺の互市の禁を開くことを請うたが、豹はいずれも差し止めて実行しなかった。帝は大いに怒って厳しく責め、豹は震え上がって罪を請い、さらに官を増やし市を開くことの非を弁じた。再び詔して責められ、豹はいよいよ恐れて便宜五事を条して献じたが、帝の意はついに晴れず、俸を二級下げられた。まもなく中旨によって罷められ、楊博が代わりに用いられた。帰って数年で卒した。年七十七。隆慶の初め、少保を贈られ、諡は貞襄。
- 豹ははじめ王守仁の良知の説を好み、弁難するうちにますます心服した。のち守仁が歿したと聞くと位牌を設けて哭し、弟子として身を処した。獄に繋がれてからは『困辨録』を著したが、王守仁の説とはかなり異同があったという。