明史卷二百二 列傳第九十 周期雍

出自と瑾党の排斥

  • 周期雍は字を汝和といい、江西寧州の人。正徳三年(1508年)の進士で、南京御史に任じられた。
  • 劉瑾が誅されたのち、瑾に斥けられた者はみな起用されたが、給事中の李光翰・任惠・徐蕃・牧相・徐暹・趙士賢、御史の貢安甫・史良佐・曹閔・王𢎞・葛浩・姚學禮・張鳴鳯・王良臣・徐鈺・趙佑・楊璋・朱廷聲・劉玉、部郎の李夢陽・王綸・孫磐らは、群閹をまとめて弾劾したという理由で採用されずにいた。期雍は同僚の王佩とともに強く請い、いずれも召し用いられた。
  • 兵部尚書の王敞は瑾に取り入って昇進した者なので、期雍はその排斥を請うた。焦芳・劉宇はなお列にあり、劉大夏・韓文・楊守隨・林瀚・張敷華はまだ雪冤されていなかったので、期雍はいずれも極論した。
  • 陳金が江西の賊を討った際に苗兵の殺掠を放任したので、期雍はその実状を暴いた。ついで廣東で軍籍を整理し、鎮守の武定侯郭勛を弾劾したため、金も勛もともに譴責を受け、期雍は福建僉事に出された。

巡撫から刑部尚書へ

  • 宸濠が反すると精鋭を選んで討伐に赴いたが、着く前に賊が平定されたので還った。嘉靖の初め、浙江參議として温州・処州の礦盜を討ち平らげ、子一人に官を与えられた。二度移って湖廣按察使。
  • 九年(1530年)、右僉都御史に抜擢されて順天を巡撫した。薊州・密雲の関堡数十が寇の警報を避けて内地に移り、関外はいよいよ無防備になっていたが、期雍はことごとく修復した。しばしば便宜の策を上申し、中央に入って大理卿となった。
  • 刑部左侍郎・右侍郎、右都御史を経て刑部尚書を拝した。京官の大計にあたって言官が期雍の収賄を弾劾したが、吏部がその誣告であることを明らかにし、詔して弾劾者を戒めた。
  • 十九年(1540年)、郭勛が以前の恨みを晴らそうとし、風霾の異変にかこつけて帝に大臣の罷免を勧めたので、期雍は位を去った。家に居ること十年で卒した。