出自と正徳年間の獄
- 王時中は字を道夫といい、黄縣の人。𢎞治三年(1490年)の進士で、鄢陵知縣に任じられた。郊外に出たとき旋風が馬の首にまとわりついたので、時中は「冤気だ」と言い、跡をたどると涸れ井戸に屍があった。婦人とその情夫が殺したもので、犯人は罪に服した。
- 召されて御史を拝し、畿輔の馬政を督察した。正徳の初め、近畿の皇莊の廃止を請うたが返答はなかった。
- 吏部尚書の馬文升が致仕すると、世の期待は劉大夏と閔珪に集まった。時中は珪を「へつらい媚びる」、大夏を「老いぼれ」となじり、二人はそれぞれ退官を求め、結局は焦芳がその地位を得た。人々はみな時中を咎めた。
- 宣府・大同を巡按して貪汚の武官百余人を捕らえたが、東厰太監の邱聚に奏上され、劉瑾が時中を捕らえて詔獄に下し、都察院の門で重い枷をかけた。病が重くなり、妻が見舞いに行く途中で都御史の劉宇に出会って泣きながら罵ったので、宇はやむなく瑾に取りなし、釈放されて鐵嶺衛に謫戍となった。
- 瑾が誅されると四川副使に起用され、湖廣按察使に移った。十二年(1517年)、右僉都御史として寧夏を巡撫した。
世宗朝の兵部・刑部
- 世宗が即位すると右副都御史に召された。父の喪に服し、明けて旧官に起用された。章聖太后に尊号を上る際、時中は「本生」の二字を削るべきでないと述べた。冊寶を奉る日、百官の陪列に出席しなかった者が九人あり、時中もその一人だった。帝は釈明を責めたが、のちに赦した。
- 兵部左侍郎を経て、李鉞に代わって尚書となった。中官の黄英らが多くの願い出をしたが、時中はすべて不可として通さなかった。薊州の盜賊平定の功の叙勲がみだりに通州守備の鄢祐にまで及び、言官の李鳴鶴らに弾劾された。時中は退官を乞い、あわせて弾劾者をなじった。給事中の劉世揚らが「時中が怒りにまかせて言官の口を封じるのは不当だ」と述べ、帝は厳しく責めて帰郷させ取り調べを待たせた。
- 嘉靖十年(1531年)四月、兵部尚書として復職した。御史の郭希愈が兵部侍郎の人選を重んじ、辺境の臣で才ある者二人に辺方と内地の軍務を分掌させることを請い、吏部はこれに従う議を出した。時中は「祖宗が臨時に将を遣わす趣旨に反する」と述べ、帝は時中の議に従った。
- 帝が王憲を兵部に用いようとしたので時中は刑部尚書に移され、御史馮恩の獄を論じたことで職を落とされ、閒住となった。はじめ恩の上疏は時中をなじるものだったが、その恩に寛大だったために罪を得たので、当時は長者と称された。久しくして赦に遇って復官し、致仕した。