篇首の立伝者一覧
- 廖 紀
- 王時中
- 周期雍
- 唐 龍(子の汝楫)
- 王 杲(王 暐)
- 周 用(宋 景、屠 僑)
- 聞 淵
- 劉 訒
- 孫應奎(餘姚の孫應奎、方 鈍)
- 聶 豹
- 李 黙
- 周 延(潘 恩)
- 賈應春
- 張永明
- 胡 松(績溪の胡松)
- 趙炳然
出自と正徳年間まで
- 廖紀は字を時陳といい、東光の人。𢎞治三年(1490年)の進士で、考功主事に任じられ、しばしば移って文選郎中となった。
- 正徳年間には工部右侍郎を歴任し、易州の山厰を提督したが、余りに出た金には一切私しなかった。のち吏部の左侍郎・右侍郎に移った。
大禮議のなかでの吏部尚書
- 世宗が即位すると南京吏部尚書を拝し、兵部に移って機務に参賛したが、弾劾を受けて職を解かれた。
- 嘉靖三年(1524年)、大禮の議が定まったのち、吏部尚書の楊旦が召しに応じて赴く途中で張璁・桂萼を弾劾した。璁・萼の一党である陳洸がそこで旦を弾劾し紀を推薦したので、帝は旦を罷めて紀を代わりに据えた。紀は辞退の疏で「臣はもう七十、精力は喬宇に及ばず、聡明は楊旦に及びません」と述べたが、当時、宇と旦は帝に憎まれていたため許されなかった。
- 光禄署丞の何淵が世室を建てて興獻帝を祀ることを請い、廷議に下された。紀らは不可と主張したが帝は従わない。紀は力争して「淵の言は君臣の分をおかし、昭穆の順序を乱し、祖宗の制を蔑ろにするものです。死を冒して、議そのものを取りやめるよう請います」と述べた。容れられなかったが、廷臣にも諍う者が多く、議はついに立ち消えとなった。
- のち三事を条奏し、その末尾で人材を惜しむべきことを説いた。正徳の末年に宗廟社稷は危うかったが、論者は逆藩を平定した功ばかりを知って京師を守り抜いた力を知らない。陛下が統を継がれてから老成の臣が相次いで去り、新進が連なって登用され、身分を越えて事を起こすのを賢とし、分を凌ぎ礼を犯すのを貴しとする風になっている。かつて致仕した大臣には保護の勲功を思って量りつつ召し用い、その他の降職・除名・遣戍の者にも才を尽くさせてほしい、と。帝は士風を正すことと守令を重んずることの二事だけを容れた。
- 三邊總督の楊一清が内閣に召し還されると、璁らは王瓊を起用しようとしたが、紀は彭澤と王守仁を推した。帝は許さず、紀はさらに鄧廷璋と王憲の名を挙げ、結局は憲が用いられた。
- 五年(1526年)正月、御史の張衮・喻荗堅・朱實昌が、世廟の礼が成ったことを理由に議礼で罪を得た諸臣の宥免を請い、璁・萼もまた同じことを請うた。上奏はいずれも吏部に下され、紀らは四十七人を列挙して上申したが、結局は取り上げられずに終わった。
- 御史の魏有本が郭勛を弾劾し馬永を救おうとして官を貶され、給事中の沈漢らが救いを論じたが帝は聴かなかった。紀が落ち着いて取りなし、あわせて永と楊銳を推薦したので帝はこれを容れ、有本は貶謫を免れた。
引退と贈諡
- 紀は南都にいたころ議論が張璁と合っており、そのために弾劾されて罷められた経緯がある。璁らは自分を助ける者を引き入れようとして紀を六卿の首に据えたのだが、紀はかえってしばしば衝突した。璁らも喜ばず、紀は年老いたとして病と称し帰郷を乞い、許された。
- はじめ獻皇實録が完成したときに太子太保を加えられ、このときさらに少保に進み、敕書を賜り伝馬に乗ることを許され、夫役と廩給は先例より加増された。卒すると太保を贈られ、諡は僖靖。