明史卷二百一 列傳第八十九 陶 琰・王 縝・李充嗣・吳廷舉・方良永・王 爌・王 軏・徐 問・張邦奇・韓邦奇・周 金・吳 嶽
篇首の立伝者一覧
底本の篇首に掲げられた立伝者は次のとおり(括弧内は割注の附伝者)。
- 陶 琰
- 王 縝
- 李充嗣
- 吳廷舉(弟 廷弼)
- 方良永(弟 浪節・子 重杰)
- 王 爌
- 王 軏
- 徐 問
- 張邦奇(族父 時徹)
- 韓邦奇(弟 邦靖)
- 周 金
- 吳 嶽(譚大初)
陶琰――出自と地方官時代
- 陶琰、字は廷信、絳州の人。父の銓は進士で陜西右參議。
- 琰は成化七年(1471年)の鄉試に首席で合格し、十七年(1481年)に進士となり、刑部主事に任じられた。
- 𢎞治初め、員外郎に進み、固原兵備副使を歴任した。士卒を訓練し糧秣を蓄え、九年を経て管内は安らかであった。福建按察使、浙江左布政使を歴任した。
陶琰――劉瑾との衝突と浙江の経営
- 正德初め、右副都御史として河南を巡撫し、刑部右侍郎に遷った。陜西遊擊の徐謙が御史の李髙を告発した。謙はもと劉瑾の一党で、厚く賄賂を贈って髙を危険な法にかけようとした。琰が赴いて調べ髙を正しいとしたので、瑾は怒り、他の事にかこつけて琰を詔獄に下し、その職を剥奪し、さらに罰米四百石を辺境に納めさせた。
- 瑾が誅されると左副都御史に起用され、漕運を總督し、あわせて淮安・揚州の諸府を巡撫した。六年、南京刑部侍郎に転じた。
- 翌年、賊の劉七らが江南を犯そうとし、王浩八がまた衢州に入った。琰は右都御史に進んで浙江を巡視した。着任したときには劉七らはすでに滅び、浩八は招撫に応じていた。
- 折しも寧波・紹興の海沿いで颶風が大いに起こり、住民が万を数えるほど流され溺れた。琰は帑金を出して賑済し、あわせて蕭山から會稽まで堤五万餘丈を大々的に築いた。
- 奏して兵備道を設けて要害を守らせ、浩八の一党の出没に備え、将を遣わしてその渠魁を撃ち斬り、そのまま開化・常山・遂安・蘭谿に城を築いたので、境内は靖まった。
- 復命して漕運を總督し、七度疏を上って帰郷を乞うた。
陶琰――再起と清倹
- 世宗が即位すると旧官に起用された。琰は三度にわたって漕を督したので、軍民はその政に慣れており、厳しくないのに粛然としていた。
- 琰は性が清く倹しく、飯には一菜のみ。官に着くときも罷めて去るときも、行李はわずか竹の箱三つであった。
- まもなく戸部尚書を加えられ、嘉靖元年(1522年)、召されて工部尚書を拝し、その冬、南京兵部に改められ、太子少保を加えられた。一年たたぬうちにしばしば老齢を理由に辞職を乞い、太子太保を加えられて駅伝で帰った。有司は毎年、時候の挨拶に安否を問うた。
- さらに九年後に卒した。享年八十四。少保を贈られ、諡は恭介。
陶滋(附伝)
- 子の滋は進士から行人に任じられた。武宗の南巡を諫めて闕下で杖たれ、國子學正に謫された。
- 嘉靖初め、兵部郎中を歴任し、同僚を率いて闕に伏して大禮を争い、再び杖を受けて榆林への謫戍となった。
- 兵部尚書の王時中らが「琰は老病で呻吟しており、父子が一目会うことを望んでいる」と言い、近くの衛に移すよう乞うたが許されなかった。十五年(1536年)に赦されて還り、卒した。
王縝――出自と直言
- 王縝、字は文哲、東莞の人。父の恪は寳慶知府。
- 縝は𢎞治六年(1493年)の進士に及第し、庶吉士に選ばれ、兵科給事中を授けられた。三邊總制の王越が汪直・李廣に付いたことを弾劾し、再び節鉞を汚してはならぬと言った。
- 外に出て南畿の屯田を管理した。有司が松江の白紵六千疋を徴発したとき、縝は紵は正規の貢納ではないと言い、あわせて上清宫の工事の停止を請うた。詔によりいずれも中止となった。
- しばしば遷って工科都給事中となった。武宗が即位した当初、内府の工匠が営造の功で恩を加えられた。縝は同僚を率いて「陛下が初めて大宝に登られたのに、工匠という末技の者がすでに微功で昇進しています。まことに後世に示すべきではありません。先朝の諸々の畫士を放ち帰し、工匠に授けた官を取り消すべきです」と言ったが、帝は用いられなかった。
- 中官の張永が通州に新城を築き直すよう請うと、縝は「泰陵の工事が始まったばかりで、無益の役を重ねて興すべきでない」と言い、帝はそこで取りやめた。
王縝――地方官と晩年
- 正德元年(1506年)、外に出て山西右參政となり、福建布政使を歴任し、右副都御史として蘇州・松江の諸府を巡撫し、江西の賊、王浩八の平定に協力した。
- 乾清宫が火災に遭うと、宗室の子を宮中に養って根本を定め、南京に新たに増えた内官を京に召し還し、建言によって黜けられた諸臣を還すよう疏で請うたが、返答はなかった。
- のち鄖陽巡撫に移り、南京刑部右侍郎に遷った。世宗が即位すると本を正す十事を陳べ、嘉靖二年(1523年)、その地で戸部尚書に抜擢され、在官のまま卒した。
李充嗣――出自と河南巡撫としての賑済
- 李充嗣、字は士修、内江の人。給事中の李蕃の孫である。成化二十三年(1487年)の進士に及第し、庶吉士に改められた。
- 𢎞治初め、戸部主事を授けられたが、伯父の臨安が郎中であったので刑部に改められた。連座して岳州通判に謫され、久しくして隨州知州に移り、陜西僉事に抜擢され、雲南按察使を歴任した。
- 正德九年(1514年)、治績が卓異として挙げられ、しばしば遷って右副都御史となり河南を巡撫した。
- その年は大凶作であったので、帑金を出し粟を移して賑済するよう請い、足りない分は富家に貸し出しを勧めた。当時、流民が多く開封に集まっていたので、粥を煮て食べさせ、一カ月を越えて路銀を与えて郷里に帰らせた。
- はじめ鎮守中官の廖堂が劉瑾に党し、進貢の名を借りて百端の要求をし、後任者もこれを常例としていた。充嗣は言った、「近ごろ中官の進貢には、古銅器・窰変盆・黄鷹・角鷹・錦雞・走狗などの物があり、いずれも名を借りた収奪です。そのほかに拝見銀・須知銀、および驛傳・快手の月錢や河夫の歇役の類の着服・差し引きなど、およそ十餘件を数え、苛酷な割り当てはたちまち数十万に上ります。その側近の用事の者はまた私に境内で雑貨を強制的に買い付け、擅に商賈の利を専売しています。厳しく禁絶されたい」。詔は、ただ下の者の収奪を禁じただけであった。
李充嗣――宸濠の乱への備えと水利
- 十二年(1517年)、應天の諸府の撫に移った。寧王の宸濠が反すると、充嗣は尚書の喬宇に「都城の守禦は公に属し、畿輔は私が引き受ける」と言い、自ら精兵一万を率いて西の采石に屯した。使者を安慶城中に入れ、指揮の楊鋭らに堅守を命じ、管内に檄を伝えて「京師と辺境の兵十万が朝夕のうちに到着する」と言い触らし、糧の供給を急がせて賊を欺いた。賊は果たして疑い懼れた。
- 事が定まると、兵部および巡按御史の胡潔がその功を上言した。当時すでに戸部右侍郎に進んでいたので、敕を賜わって嘉労された。
- 蘇州・松江の水利の修築を建議する者があり、充嗣は工部尚書に進んであわせて水利の事を領した。まもなく世宗が即位し、工部郎の林文霈・顔如壊を遣わして補佐させ、白茅港を開き、吳淞江を浚え、六カ月で工事を終えた。詳細は河渠志に見える。
- 嘉靖元年(1522年)、宸濠平定の功を論じて太子少保を加えられた。
- 蘇州・松江の白糧は内府に納められていたが、正德の時、内使が急に五千人増えたため、糧もまた十三万石増えていた。帝は充嗣の言を用いて旧額に戻した。
- また常賦のほか、毎年の調達で額を超えるものはすべて免除し、内府の徴収には科道の官を監として内臣の苛酷な要求を許さぬよう請い、帝はいずれも従った。
- まもなく南京兵部尚書に改められ、七年(1528年)に致仕して卒した。久しくして詔により太子太保を贈られ、諡は康和。
吳廷舉――出自と地方官としての剛直
- 吳廷舉、字は獻臣。先祖は嘉魚の人で、祖父が梧州に戍られてそのまま同地に住んだ。成化二十三年(1487年)に進士に及第し、順徳知縣に除せられた。
- 上官が中貴人の先祖の祠を修めるよう命じたが、廷舉は不可とした。市舶の中官が葛布を買い付けたときは、葛二疋を与えて「当地の産ではない」と言ったので、中官は大いに怒った。御史の汪宗器もまた廷舉を憎み、「彼はもっぱら上官に逆らって名を売っているだけだ」と言った。
- 折しも廷舉が淫祠二百五十所を毀ち、その材で堤を作り、學宫・書院を修繕した。宗器は横領があるとして捕らえて獄に下したが、取り調べても隙が見つからず、恥じて止めた。
- 縣にあること十年、やや遷って成都同知となり、憂で帰り、松江に補せられた。尚書の馬文升・劉大夏の推薦により廣東僉事に抜擢され、總督の潘蕃に従って南海・清遠の諸盜を討ち平げた。
吳廷舉――劉瑾による投獄と江西での討賊
- 正德初め、副使を歴任し、總鎮中官の潘忠の二十の罪を摘発した。忠もまた廷舉の他の事を告発したので、詔獄に逮え繋がれた。劉瑾は詔を偽って枷を十餘日はめさせ、あやうく死ぬところであった。雁門に戍られたが、まもなく赦免された。
- 楊一清がその才を推薦し、江西右參政に抜擢された。華林の賊を連河で破り、陳金に従って姚源の賊を大破した。その一党が裴源に逃げたので、さらに俞諌に従ってこれを破った。
- 賊の首魁の胡浩三は招撫に応じたのち再び叛いた。廷舉が諭しに行って捕らえられたが、三カ月おいてその内情を残らず把握し、誘って離間させた。帰還を得ると、浩三は果たしてその兄の浩二を殺し、内乱となった。官兵はこれに乗じてついに浩三を捕らえた。
- 副使の李夢陽と折り合わず、夢陽が職権を侵していると奏し、そのついでに辞職を乞い、命を待たずに去ったので、俸一年を停められた。
- 廣東右布政使に起用され、再び陳金を助けて府江の賊を平げ、右副都御史に抜擢されて湖廣の飢饉を賑済した。のちまた湖南に出て諸夷の疆域を定めた。
- 寧王の宸濠に逆謀があったので、疏を上って江西の軍政六事を陳べ、予防の計とした。
吳廷舉――中央での言動と致仕
- 世宗が立つと召されて工部右侍郎となり、まもなく兵部に改められた。上疏して陸完・王瓊・梁儲および少傅の蔣冕を謗り、自らは「かつて憲職にありながら一言も述べなかった。罷免して位を幸に得た者への戒めとされたい」と言った。当時、完は早くに罪を得、瓊と儲もすでに罷めて去っていたので、廷舉はこれにかこつけて冕を倒そうとしたのである。冕もまた罷免を求めた。帝は廷舉をかなり不当と考え、南京工部に移し、冕を慰め諭した。冕は固く留任を辞したが、聴かれなかった。
- 嘉靖元年(1522年)、廷舉は辞職を乞い、まもなく災異により再び自ら弾劾して罷免を求め、帝に徳を修めて天に応えるよう勧め、そのついでにその部の興革十二事を奏行した。まもなくその地で戸部に改められ、右都御史に遷って應天の諸府を巡撫した。
- 長洲知縣の郭波が事によって織造中官の張志聰の面目を潰した。志聰は波が外出する隙を窺って車の後ろに引き倒した。典史の蕭景腆が教場で兵を操っていたので、急ぎ兵を率いて救い、百姓は屋根に登って瓦を飛ばして志聰を撃った。志聰は波と景腆の逮捕を奏したが、廷舉が志聰の貪欲の状を具さに明らかにしたので、帝は波を五級降し、景腆を遠方に移し、志聰もまた召し還した。
- 三年、大禮の議がまだ定まらないので、洪武年間に『孝慈録』を修めた故事にならい、両京の部・寺・臺・省および天下の督撫にそれぞれ所見を条陳させ、あわせて家居する老臣にも諮り、採用して実行し、一書にまとめて後世に詔とするよう請うた。当時すでに「本生考」と称することが定まっていたが、廷舉は帝の意が満足していないのを窺ってこの奏をしたのである。給事中の張原・劉祺が交々弾劾したが、返答はなかった。
- まもなく南京工部尚書に改められたが、辞して拝さず、病と称して辞職を乞うた。帝は慰留した。のちまた辞し、しかも白居易・張詠の詩の語を引いて詼諧が多く、その中にまた「嗚呼」の字を用いた。帝は怒り、廷舉が怨望して人臣の礼を欠くとして、致仕を強いた。
吳廷舉――人となり
- 廷舉は顔が削り取った瓜のように痩せ、衣は破れ帯は擦り切れ、飾り立てることをしなかった。言行は必ず自ら信ずるところによって、人が動かすことはできなかった。
- 太學にあったころ、羅玘に兄として仕えた。玘が痢を病み、僕が死ぬと、自ら薬を煮て飲ませ、背負って厠に連れて行くこと一昼夜に数十度に及んだ。玘はかつて人に「獻臣は私を生かした」と語った。
- 廷舉は薛瑄・胡居仁の学を好み、陳獻章を尊んで師事した。狭く低い家に住み、郭外に田がなく、書一万巻があった。卒したとき、總督の姚鏌がその喪を整えた。隆慶年間、清恵と追諡された。
吳廷弼(附伝)
- 弟の廷弼は鄉試に合格した。廷舉が吏部の前で枷をはめられたとき、廷弼はその械の下に臥した。刑部主事の宿進が張綵に上申書を出したので、ようやく釈かれた。
方良永――出自と海南の平定
- 方良永、字は夀卿、莆田の人。𢎞治三年(1490年)の進士。兩廣で滞納の徴収を督し、贈り物を厳しく退けたので、布政使の劉大夏に器量を認められた。
- 帰って刑部主事を授けられ、員外郎に進み、廣東僉事に抜擢された。瓊州の賊、符南蛇が乱をなしたとき、大夏は當時總督であり、檄して海南の兵備を代行させ、師を会して討ち平げさせた。御史は良永が利を失ったとして罪に問おうとしたが、大夏はすでに入って兵部の長官となっており、朝廷に事情を明らかにしたので、銀幣を賜わった。
方良永――劉瑾・錢寧との対決
- 正德初め、父の喪が明けて京師で銓選を待った。外官は朝見が終わると必ず劉瑾に謁するのが習いであった。鴻臚が良永を左順門に導き、叩頭が終わると東に向かって瑾に揖するよう言ったが、良永はそのまま出て行った。ある者が瑾の家に赴くよう勧めたが、良永は承知しなかった。吏部が良永を河南撫民僉事に任じると、中旨により致仕を強いられた。
- 去ってからも瑾の怒りは収まらず、海南の殺人の件にかこつけて陥れようとしたが、刑部郎中の周敏が力を尽くして抑えたので罪に問われなかった。
- 瑾が誅されると湖廣副使に起用され、まもなく廣西按察使に抜擢された。巡按御史の朱志榮の罪を摘発して謫戍に至らせた。山東右布政使に遷り、まもなく浙江に移り、左に改められた。
- 錢寧が鈔(紙幣)二万を浙江で売りさばこうとした。良永は上疏して言った。
- 四方の盜がやっと収まったばかりで傷は癒えておらず、浙江の東西では雨と雹の害があります。
- 寧は下僕の賤しい出でありながら義子の名を借りて公侯の列に上り、賜与は数知れず、賄賂の受け取りは計り知れません。それでいて敢えて民の財を奪い国の本を損なっております。有司の実施は詔旨より急で、胥吏はそれに乗じて奸を働き、皮を打ち髄を剥ぐありさまで、民は命に堪えません。
- 鎮守太監の王堂・劉璟は寧の威を畏れてその使い走りとなっております。臣がどうして一命を惜しんで奏さずにおられましょうか。陛下には寧を詔獄に下し典刑を正され、あわせてその党を治めて百姓に謝されたい。
- 寧は懼れて疏を留めて下さず、校尉を遣わして威を借りて鈔を売る者を捕らえて帝の前を取り繕い、鈔の代金を民に返すよう請い、密かに先に遣わした使者を召し還した。
- 寧は当初、鈔を天下に散らそうとして、まず浙江と山東で行っていた。山東では巡撫の趙璜に阻まれ、良永がその奸を暴いたので、寧はこれ以後あえて鈔を売らなくなった。
- 寧がまさに得意であったころ、公卿・臺諫で一言を発する者もなかったのに、良永は地方官の身で公然と誅すべきだと言ったので、聞く者は震え驚いた。良永は母が老いていることを思い、禍に遭うことを恐れ、三度疏を上って辞職して去った。
方良永――晩年と人となり
- 世宗が即位すると内外から交々推薦され、右副都御史を拝して鄖陽を撫治したが、母が老いていることから再び疏を上って養老を全うすることを乞うた。都御史の姚鏌は破格の褒賞を請い、尚書の喬宇・孫交は「良永の家に余財はない。侍郎潘禮・御史陳茂烈の故事により廩米を賜わるべきだ」と言った。詔により月に三石を給された。
- 久しくして母が卒すると、詔により祭𦵏を賜わった。いずれも異例の恩典であった。
- 喪が明けて旧官のまま應天を巡撫することとなり、家にいながら敕を賜わったが、衢州に至って病を発し、続けて疏を上って致仕を乞い、返答を待たずに帰って卒した。卒後に南京刑部尚書の命があり、訃が届くと卹は制のとおり賜わり、諡は簡肅。
- 良永は父の病に侍して三カ月、帯を解かなかった。母が病んだときは良永はすでに六十餘であったが、自ら湯薬を進めて少しも怠らなかった。喪の廬に居て哀しみに身を毀ち、純孝と称された。
- もとより王守仁と親しかったが、学問については意見を異にした。かつて人に語って言った、「近世はもっぱら心学を言い、自ら超悟して独り到ったと称し、その説を推して象山に自らを付し、上は孔子に達するとしている。そして賢聖が人を教える次第を、子供じみた無用の学と見なす。程朱以下、排斥されぬものはない。だがそれが妄りに陥っていることに気づいていない」。
方良節・方重杰(附伝)
- 弟の良節は廣東左布政使を官とし、やはり治績があった。
- 子の重杰は鄉試に合格し、孝行で知られた。
王爌――出自と諫官としての救済
- 王爌、字は存約、黄巖の人。𢎞治十五年(1502年)の進士。太常博士に除せられた。
- 正德の時、しばしば遷って刑科都給事中となった。武定侯の郭勛が兩廣を鎮して行いが誤っていたので、詔により自ら申し開きをさせたところ、勛は強弁した。爌らがこれに反論したが、都察院は再度の上奏で爌の言を採らなかった。爌はあわせて都御史の彭澤を弾劾したが、帝は澤を責めただけで勛は問わなかった。
- 御史の林有年が直言によって獄に下され、浙江僉事の韓邦竒が中官に逆らって逮えられたとき、爌はいずれも救った。
- 帝が大同に行幸して長く還らなかったので、爌は力を尽くして還御を請うた。また工科の石天柱とともに彭澤を救い、王瓊に逆らったので、中旨により二人とも外に移され、爌は恵州推官となった。
- 世宗が立つと召されて都給事中に復し、まもなく太僕少卿に抜擢され、太常に改められた。
王爌――晩年の節操
- 嘉靖三年(1524年)、應天府尹に遷った。その年は大凶作であったので、奏してその賦を免じた。四年在任して南京刑部右侍郎に遷ったが、母が老いていることから帰って養い、家居すること十年。
- 旧官に起用され、まもなく南京右都御史に抜擢された。守備の中官が表を進めるにあたり、御史二人に礼を監させようとした。爌は「中官がどうして御史を使役できようか」と言い、これを止めた。
- 賀のため入朝して内閣に夏言を訪ねたとき、言ははなはだ倨傲で、大臣の多くは隅に坐っていた。爌ひとりが席を引いてこれを正した。言は不快となり、爌はそこで病と称して帰った。
- 爌は御史の潘壯と折り合わなかったが、壯が大獄に座して詔により爌が取り調べることになったとき、爌は力を尽くして壯の無罪を明らかにし、旨に逆らうまでに至った。人はこれによって爌を長者と称した。卒して工部尚書を贈られた。
王軏――出自と四川巡撫
- 王軏、開平衛の人。𢎞治十二年(1499年)の進士。正德初め、工部員外郎を歴任し、しばしば遷って山東左布政使となった。
- 嘉靖初め、入って順天府尹となった。房山で地震があり、軏は災いを招くには理由があると述べたが、言葉に指弾が多く旨に逆らって厳しく責められた。
- まもなく右副都御史に遷り四川を巡撫した。芒部の土官知府の隴慰が死に、庶子の政と嫡子の夀が家督を争った。朝議は夀を立てたが、政は烏撒に頼ってしばしば兵を構え、人を遣わして夀を誘い殺し、その印を奪った。軏が討伐を請い、貴州の兵と会して道を分けて進み、水西で政を捕らえ、四十九砦を招き降した。璽書で奨労された。
王軏――戸部での土地の整理
- 当時、仁夀宮を営もうとしていたので、その地で軏を工部右侍郎に拝し、大木の採取を督させた。工事が終わって召還され、戸部に改められた。
- 九門の苜蓿地を調べ、余った地を民に返した。御馬監の草場を取り調べて二万餘頃の地を整理し、民を募って耕作させた。
- 房山の民が牧馬の地を中官の韋恒に献じたのを、軏は整理して官に帰した。奸人の馮賢らがまた中官の李秀に献じ、秀が帝に願い出たが、軏は抗議の疏を上った。帝は秀を宥したものの、結局、賢らは律のとおり治罪された。
- 外に出て勛戚の莊田を調査した。周の制にならい品秩を計り親疎を分けて多寡を定め、詔で賜わったものでなく密かに占めているものはすべて追徴して裁断するよう請うた。戸部尚書の梁材がその言を採用し、兼併されていたものはことごとく官に帰した。やや進んで左侍郎となった。
王軏――芒部の改流をめぐる罷免と再起
- はじめ軏が隴政を平げたとき、隴氏に後嗣がないとして流官に改めて設置するよう請い、兵部尚書の李鉞らがこれをもっともとした。そこで芒部を鎮雄府に改め、四長官司を分置し、隴氏の遠縁の阿濟らを長官に授け、重慶通判の程洸を試知府に抜擢した。
- 隴氏の旧部の沙保らが洸を攻めて捕らえ、その印を奪い、隴氏の後を再び立てようとした。巡撫の王廷相らが保を破って洸は還ることができた。保の子の普奴がまた烏撒・水西の苗と結んで畢節の諸衛を攻め掠めたので、帝は伍文定に対処を命じたが、朝議が合わず召し還された。
- 御史の戴金がそこで「芒部の改流の議は諸司がみな不可としたのに、軏は洸の邪説に従い衆に背いて独断し、辺境を靖まらなくさせた」と言い、そこで軏の官を罷めた。
- 兵部尚書の李承勛の推薦により旧官に起用され、倉場を總督し、再び遷って南京戸部尚書となった。御史の龔湜が軏の考課を弾劾したが、吏部は「軏は官にあって倹素であり、搢紳の手本である」と言ったので、帝は湜の妄言を責めた。
- 久しくしてその地で兵部に改められ機務に參贊した。詔により将才を挙げるよう命じられ、鄭卿・沈希儀ら二十一人を推薦し、みな抜擢して用いられた。
- 四年在任して老齢を理由に罷免を乞うたが、疏の中に自分の享年を書いたので、帝は君に告げる体をなさぬとして民に落とした。久しくして卒した。
徐問――出自と地方官としての清廉
- 徐問、字は用中、武進の人。𢎞治十五年(1502年)の進士。廣平推官に任じられ、刑部主事に遷り、兵部を歴任した。
- 外に出て登州知府となった。地は海に臨んで盜が多かったが、問はことごとく捕らえた。
- 臨江に移り、壊れた堤七十二を修築した。長蘆鹽運使に転じた。分司はもとより利の巣で、身を持することを好む者は在任を喜ばなかったが、問は「私はこの官を清らかにしたい」と言い、任期を終えるまで一銭も取らなかった。
- しばしば遷って廣東左布政使となった。
徐問――貴州巡撫と用兵への戒め
- 嘉靖十一年(1532年)、治績が卓異として右副都御史を拝し、貴州を巡撫した。
- 獨山州の賊、蒙鉞が父を弑して乱をなした。問は南丹・泗城が逆に加担しようとしていると聞き、廣西の撫按に檄してその謀を潰させ、また鉞の弟の釗に檄して父の仇を報いさせ、事が定まれば家督を継がせることとした。鉞は援けを絶たれ、問は大軍を督して道を分けて入り、これを誅した。勝報が届き、金と綺を賜わった。
- 召されて兵部右侍郎となり、疏で武備八事を陳べた。また言った、「兩廣・雲南・貴州は半ば土司であり、深山と密林は猺・獞・羅・僰の巣窟です。辺将は功を喜んで釁を招き、好んで巣を掃う挙に出ますが、王師が入るたび巨悪は姿を潜め、誅戮されるのはおおむね無辜の赤子です。大兵を興し厚い餉を費やして無辜の命と取り替えるのは、陛下の生を好まれる意ではありません。辺臣に敕して威信を布き、要害を厳しくし、哨探を慎み、各々辺境を安んじさせて禍の芽を絶つべきです」。帝は深くその言を容れた。
- まもなく病と称して帰った。二十一年(1542年)、召されて南京禮部侍郎となり、久しくしてその地で戸部尚書に遷り、また病と称して去り、家で卒した。
- 問は清節をもって自ら励み、官にあること四十年、破れた家は何もなく、田は百畝に満たなかった。学を好んで倦まず、粋然として深く到り、士人の宗と仰がれた。隆慶初め、莊裕と諡された。
張邦竒――出自と世宗との縁
- 張邦竒、字は常甫、鄞の人。十五歳で『易解』および『釋國語』を著した。𢎞治末年の進士に及第し、庶吉士に改められ、檢討を授けられた。
- 外に出て湖廣提學副使となり、教えを下して「学が孔子・顔淵に及ばず、行いが曽参・閔子騫に及ばぬ者は、文が揚雄・王褒のようであっても私は斥ける」と言った。在任三、四年、諸生は競って励んだ。
- 当時、世宗はまだ興府の世子であり、獻皇が試験を受けさせた。そこで特に二つの机を設け、自らは北に居り、世子を南に居らせた。文が成って学に入れた。世宗はこれによって邦竒を知った。
- 嘉靖初め、四川の提學となったが、親が老いていることから帰郷を乞うた。久しくして桂萼が銓を掌り、天下の提學官の去留を決めたとき、邦竒は福建に起用された。まもなく地方官から坊局に選ばれて入り、右庶子に改められ、南京祭酒に遷った。身をもって教えとし、学規は整然としていた。その地で吏部侍郎に遷り、父の喪で帰った。
張邦竒――宰相の器と晩年
- 帝がかつて太后を奉じて天夀の諸陵に謁したとき、話が宰相の選任に及んだ。太后は「先皇はかつて、提學の張邦竒は器量識見があり、いずれ宰相になれると言っていた。その人は今どこにいるか」と言った。帝ははっと悟って「まだ用いておりません」と言った。
- 喪が明けるとただちに召されて吏部右侍郎となり、部の事を掌った。善類を推し進め、人は私事で頼ることができなかった。銓部の昇進・任命は多く政府の指示を受けていたが、邦竒だけはそうしなかったので、大學士の李時は彼を恨んだ。郭勛の家人が法を犯し、重い賄賂を担いで寛大を請うたが、邦竒は従わなかった。帝はただちに邦竒に尚書を授けようとしたが、この二人に阻まれて止まった。
- まもなく翰林院の事を掌るよう改められ、日講官を務め、太子賓客を加えられ、詹事府の掌に改められた。九年の考績で禮部尚書に進んだが、母が老いていて養育に便宜を得たいことから南京吏部に改められ、さらに兵部に改められて機務に參贊した。
- 帝はなお邦竒を思い、時に嚴嵩に話した。嵩は「邦竒は性が至孝で、母が老いており、北に来るのを喜びません」と言った。帝はその言を信じ、ついに召さなかった。
- 二十三年(1544年)に卒した。享年六十一。太子太保を贈られ、諡は文定。
- 邦竒の学は程朱を宗とした。王守仁と親しかったが、話は毎度合わなかった。自ら修め力めて践み、一歩も慎まぬことがなく、昼に行ったことは夕に必ず冊に書きつけた。
- 性は篤く孝であり、親を養うためにしばしば起用されてはすぐ退いた。その母はのち邦竒が卒したあと、百歳の寿を保った。邦竒は寡婦となった兄嫁に母に仕えるように仕えた。註した『學庸傳』『五經説』および文集は、粋然としてすべて正に出ていた。
張時徹(附伝)
- 族父の時徹は邦竒より二十歳若く、邦竒に学んだ。官は南京兵部尚書に至り、文名があった。
韓邦竒――出自と浙江での中官との対決
- 韓邦竒、字は汝節、朝邑の人。父の紹宗は福建副使。
- 邦竒は正德三年(1508年)の進士に及第し、吏部主事に除せられ、員外郎に進んだ。六年(1511年)冬、京師で地震があり、上疏して時政の欠陥を陳べたが、旨に逆らって返答はなかった。折しも給事中の孫禎らが職に堪えぬ臣僚を弾劾し、あわせて邦竒にも及んだ。吏部はすでに留任を議していたが、帝は結局、先の疏のゆえに平陽通判に黜けた。
- 浙江僉事に遷り、杭州・嚴州の二府を管轄した。宸濠が内竪に命じて僧に飯を施すと称して千人を杭州の天竺寺に集めさせたとき、邦竒はただちに解散させた。その儀賔が進貢に託して衢州を通ろうとしたとき、邦竒は「入貢するなら江に沿って下るべきだ。なぜ道を借りるのか。帰って王に告げよ。韓僉事は欺けぬと」と詰めた。
- 当時、浙江にいた中官は四人。王堂が鎮守、晁進が織造の監督、崔珤が市舶の主管、張玉が営造の管理で、その手先が四方に出て民は生きた心地がしなかった。邦竒は疏で禁止を請い、またしばしば堂を抑えた。
- 邦竒は中官が富陽の茶と魚を採って民の害となっているのを憐れみ、歌を作って哀しんだ。堂はそこで、邦竒が上供を妨げ歌を作って怨み謗っていると奏した。帝は怒って京に逮えて詔獄に下し、廷臣が救いを論じたがいずれも聴かれず、民に落とされた。
韓邦竒――再起と歴任
- 嘉靖初め、山東參議に起用されたが辞職して去った。まもなく推薦により旧官のまま山西に□(底本欠字)し、再び辞職して去った。
- 四川提學副使に起用され、入って春坊右庶子となった。七年、同僚の方鵬とともに應天鄉試を主宰したが、試録の誤りに座して南京太僕丞に謫され、また帰郷を乞うた。
- 山東副使に起用され、大理丞に遷り、少卿に進み、右僉都御史として宣府を巡撫し、入って院事を補佐し、右副都御史に進んで遼東を巡撫した。
- 当時、遼陽で兵変があり、侍郎の黄宗明が「邦竒はもとより威望がある。便宜を許して速やかに赴かせ乱を鎮めさせるべきだ」と言ったが、帝はちょうど姑息を事としており従わず、山西巡撫の任洛と官を交換するよう命じた。
- 山西に至って政を厳粛に行い、有司の供応はことごとく受け取らず、一日おきに俸米を出して肉一斤に換えるだけであった。
- 四年在任して病により帰った。内外から交々推薦され、旧官のまま起用されて河道を督し、刑部右侍郎に遷り、吏部に改められ、南京右都御史を拝し、兵部尚書に進んで機務に參贊し、致仕して帰った。
- 三十四年(1555年)、陜西で大地震があり、邦竒はこれに斃れた。太子少保を贈られ、諡は恭簡。
- 邦竒は性として学を嗜み、諸経・子・史から天文・地理・樂律・術数・兵法の書に至るまで、通じ究めぬものがなかった。著述ははなはだ多く、撰した『志樂』はとりわけ世に称された。
韓邦靖(附伝)
- 弟の邦靖、字は汝度。十四歳で鄉試に合格し、邦竒と同時に進士に及第した。工部主事に任じられ、浙江で木材の専売を監したが、額に達せず弾劾された。官を守って清廉であったので免れ、員外郎に進んだ。
- 乾清宫が火災に遭ったとき、時政を指弾すること甚だ切であった。武宗は大いに怒って詔獄に下したが、給事中の李鐸らが取りなしたので、職を奪って民とするにとどまった。
- 世宗が即位すると山西左參議に起用され、大同を分守した。その年は飢饉で人が人を食う有様であったので、帑の支出を奏請したが許されず、さらに千餘言の抗議の疏を上ったが返答はなかった。帰郷を乞い、命を待たずに出発した。軍民は道を塞いで泣いて留めた。家に着いて病で卒した。享年三十六。
- まもなく邦竒もまた參議として大同に□(底本欠字)した。父老は邦靖のゆえに前に出て迎え、みな涙を流した。邦竒もまた泣いた。
- 邦竒はかつて廬に居て病むこと一年餘り起き上がれなかったが、邦靖は薬を必ず自ら分けて味わい、飲食はすべて手ずから進めた。邦靖の病が重くなってからは、邦竒は日夜弟を抱えて泣き、三カ月衣を解かなかった。没してからは喪服を着て粗食し、喪を終えるまで怠らなかった。郷人は孝弟の碑を立てた。
周金――出自と諫官としての建言
- 周金、字は子庚、武進の人。正德三年(1508年)の進士。工科給事中を授けられ、しばしば遷って戸科都給事中となった。
- 疏で言った、「京の糧は毎年三百五万が入るのに、食う者は四百三万である。痛切に整理淘汰すべきである」。
- また、仏を迎える中官および織造を監する者が濫りに鹽引を願い出て道々で横暴を働いているので廃止すべきだと言った。
- また、都督の馬昻が妊娠した妹を献じた件では、昻を誅してその娘を返すべきだと言った。
- 朝議で土魯番に用兵して哈密を回復しようとしたとき、金は「西辺は疲弊しており、土魯番は険しく遠い。しかも青海の宼が西寧を窺っている。哈密を計るべきではない」と言い、ついに金の議に従われた。
周金――延綏・宣府・保定の巡撫
- 嘉靖元年(1522年)、太僕寺少卿から都察院右僉都御史に遷り、延綏を巡撫した。辺の人ははなはだ貧しかったので、金は商人を招いて粟を集め、屯を広げ秣を蓄え、時に応じてその食を給した。
- 宣府撫に改められ、右副都御史に進んだ。大同の叛卒が張文錦を殺して以来、辺鎮の兵はみな驕っていた。宣府總督侍郎の馮清は苛酷で、諸軍が糧を請うても従わず、しかも鞭打とうとしたので、衆はどっと清の役所を囲んだ。
- 金はちょうど病んでいたが、出て院の門に坐り、諸々の軍官を召して数え上げて言った、「これはお前たちの搾取が過ぎたせいだ。厳しく鞭打ってやりたい」。軍士の気はやや和らぎ、押し寄せて「總制が我らを憐れまぬからです」と請うた。金は落ち着いて利害を諭し、衆はみな散り、解けて去ったので変にならずにすんだ。
- 保定撫に改められた。巡按御史の李新芳が廣平知縣が自分を謀っていると疑って笞打とうとし、知府がこれを取りなすと、知府まで捕らえようとして兵二千を出して捕らえに行った。知府および佐貳はみな逃げ、城中はすっかり空になった。金がその罪状を摘発したが、都御史の王廷相が新芳を庇って争った。帝は結局、新芳を刑部に下して官を黜けた。
- 金は兵部右侍郎に遷り、まもなく右都御史に進んで漕運を總督し、鳳陽の諸府を巡撫した。久しくして南京刑部尚書に抜擢され、その地で戸部に転じた。二十四年(1545年)に致仕して帰り、一年餘りで卒した。太子太保を贈られ、諡は襄敏。
吳嶽――出自と清廉な地方官
- 吳嶽、字は汝喬、汶上の人。嘉靖十一年(1532年)の進士。戸部主事に任じられ、郎中を歴任して宣府で餉を督した。吏が余剰の金数千を進めたが、これを拒んだ。
- 外に出て廬州知府となった。税課は毎年一万金で、例により府に納められていたが、嶽はこれを郵傳の費用に充てた。西山の薪はもと官の炊事に供されていたが、嶽は緩めて民を利した。憂で去った。
- 喪が明けて保定に改められ、治め方は廬州と同じであった。山西副使、浙江參政、湖廣按察使、山西右布政使を歴任し、いずれも清静をもって民の心を得た。
- 右僉都御史に遷って保定六府を巡撫し、奏して徴発の冗費を十のうち六、七削ったので、民力はそれで緩んだ。一年たったところで病と称して去った。
吳嶽――中央での峻厳
- 久しくして貴州巡撫として徴され、まもなく左副都御史に進んで院事を協理した。
- 隆慶元年(1567年)、吏部左侍郎・右侍郎を歴任した。京察が終わったとき、給事中の胡應嘉が救済を申し立てた。嶽は内閣に赴いて声を張り上げて「科臣が考察による罷免官を留めるなど、先例があるか」と言い、應嘉はそこで譴責を受けた。
- 南京禮部尚書に遷り、その地で吏部に改められた。浮薄を抑え僥倖を杜いだので、南都の搢紳は彼を憚った。上疏して六事を陳べ、帝はかなりその言を容れた。
- まもなく兵部に改められて機務に參贊することとなったが、着任前に休暇を得て家を通ったところ、病んで卒した。詔により太子太保を贈られ、諡は介肅。
- 嶽の清望は当時の第一で、身を持することは整然としていた。尚書の馬森は「平生、廉節の士を二人見た。嶽と譚大初だけである」と言った。
- 嶽が廬州を知していたころ、王廷が蘇州を守っており、公事で京口に落ち合った。嶽は金山の遊びに誘い、酒一缻・肉一斤・菜数束を携えていった。廷が笑って「これだけか」と言うと、嶽もまた笑って「我ら二人の食には十分だ」と言い、一日楽しんで帰った。廬州を去る日、傘一本を借りて雨を凌ぎ、着くとすぐに返させた。
譚大初(附伝)
- 譚大初、字は宗元、始興の人。嘉靖十七年(1538年)の進士。工部主事に任じられ、憂で帰り、起用されて戸部に補せられ、戸科給事中に改められ、しばしば事を論じた。兵科左給事中を歴任した。
- 外に出て江西副使となり、軍籍を整理して多くを放免した。御史の孫慎が定額に達しないことを疑うと、大初は「額に達せぬ罪は小さく、民に災いする罪は大きい」と言った。嚴嵩の親族・一党が民の田を奪ったときは、これを治めて少しも容赦しなかった。
- 廣西右參政に遷ったが、自ら弾劾して帰った。久しくして旧官で河南に起用されたが着任せず、南京右參政に抜擢され、まもなく應天府尹に遷った。南都へ赴こうとしたところで穆宗が即位したので、參政のまま致仕することを乞うたが許されなかった。
- 隆慶元年(1567年)、召されて工部右侍郎を拝し、まもなく戸部左侍郎に遷って倉場を督した。海瑞が僉都御史となったとき、大初は力を尽くして瑞を推薦した。
- のちしばしば疏を上って辞職を乞うたが許されず、南京戸部尚書を拝し、病と称して去った。家居して田は百畝に満たなかった。卒したとき七十五歳。諡は莊懿。
史論
- 贊に言う。正德・嘉靖の際、士大夫は方正を削って円滑となり、その平素の行いを貶めた。羔羊・素絲の節はようやく薄れていた。
- 陶琰ら諸人は清らかな操が峻しく際立ち、卓然として風とするに足りる。南都の列卿は前後に相望み、なんと賢いことか。
- 琰の漕運の監督、李充嗣の守禦、方良永の錢寧を遏めたこと、周金の乱卒を鎮めたことは、樹立するところがはなはだ偉大であった。
- さらに琰の子の直節、吳廷弼・韓邦靖の篤い行いは、とりわけその父兄に恥じぬものであった。