明史卷一百九十七 列傳第八十五 黄綰
黄巖の人、字は宗賢。侍郎・孔昭の孫で、祖父の廕により後府都事から身を起こし、謝鐸と王守仁に師事した。南京都察院經歴のとき大禮を上言し、陛下を孝宗の子とすれば孝宗も興獻帝も絶えると論じて帝の知遇を得、張璁・桂萼・黄宗明との連名の争いで大禮を決着させた。王守仁らの恩賞が滞っていたのを訴えて実現させ、任子出身として前例なく翰林の官に列した。大同の兵変では現地に赴き、叛卒の首謀者だけを捕らえ保甲と社学を置いて城中を安定させた。晩年は張璁に背いて夏言に付き、朝鮮への正使に起用されながら赴任を渋って失脚し、家で没した。
地方官から兵部侍郎へ
- 翌年、吉安知府として出て、福建鹽運使に遷った。
- 六年、『明倫大典』の編纂に召されたが、母の喪で帰郷した。喪が明けて召され光禄卿に任ぜられ、十一年、兵部右侍郎に抜擢された。
- その冬、編修の楊名が汪鋐を弾劾して詔獄に下され、供述が同僚の程文徳に及んで程文徳も繋がれた。詔書は主謀者を責めることをいっそう厳しくした。
- 黄宗明は抗議の疏で救い、「連坐は善政ではない。いま一人の妄言によって必ず主使を究めるのでは、廷臣で恐れぬ者があろうか。まして楊名は拷問が既に極まっており、厳冬にあって斃れれば、仁明の徳の傷となる」と述べた。帝は激怒し、黄宗明こそその主使であるとして、あわせて詔獄に下し、福建右參政に左遷した。
遼東の兵変と最期
- 帝は結局、黄宗明が礼を議した功を思い、翌年召して禮部右侍郎に任じた。
- 遼東で軍が変を起こして巡撫の吕經を打ち辱めたとき、帝は事なかれを旨とし、鎮守中官の王純らの言を容れて吕經を逮えようとした。
- 黄宗明は述べた。先の遼陽の変は刺激を受けて起こったものだが、いまは重い賦と苛酷な徭役をすべて正している。廣寧がまた変を起こしたのは、誰が刺激したというのか。法として重ねて赦すべきではない。新任の撫臣・韓邦竒に兵を率いて境に迫らせ、罪を討つ声を挙げてその首謀者を取り、国威を振るわせるべきで、姑息を事とすべきではない、と。帝は従わず、吕經は結局逮えられた。
- 黄宗明はまもなく左侍郎に転じ、任地で没した。
- はじめ礼を議した諸臣は帝の恩寵を恃んで威勢を振り回し、思うままに振る舞った。黄宗明はそれによって急に顕れたとはいえ、論はかなり平明であり、諸人の中でひとり憎まれる者がなかった。
出自と大禮の上疏
- 黄綰は字を宗賢といい、黄巖の人である。侍郎の孔昭の孫である。祖父の廕を承けて後府都事となった。かつて謝鐸と王守仁に師事した。
- 嘉靖のはじめ、南京都察院經歴となった。張璁・桂萼が大禮を争い、帝の心がそれに傾いていたので、三年二月、黄綰も上言して述べた。
- 武宗が孝宗の統を承けること十六年である。いまあらためて陛下を孝宗の子として孝宗の統を継がせるなら、武宗には廟があってはならぬことになる。これは孝宗に武宗を子とさせぬことであり、つまり孝宗を絶つことである。それによって興獻帝に陛下を子とさせぬことになり、つまり興獻帝を絶つことである。三綱が沈み九法が廃れるに近いではないか、と。
- 奏が入ると帝は大いに喜び、担当官に下した。その月、重ねて上疏して前の説を申し述べた。
- ほどなく帝が詔して「本生皇考」と称したと聞き、また抗議の疏で極論した。さらに張璁・桂萼および黄宗明とともに連名で争い、大禮はここに定まった。黄綰はこれ以来大いに帝の知遇を得た。
王守仁らの功の訴え
- 翌年、何淵が世室の建立を請うたとき、黄綰は黄宗明とともにその誤りを斥けた。
- まもなく南京刑部員外郎に遷り、再び病と称して帰郷した。
- 帝はその礼を議した功を思い、六年六月、召して光禄少卿に抜擢し、『明倫大典』の編纂に加えた。
- 王守仁が忌む者に陥れられ、伯に封ぜられながら誥券も歳禄も支給されず、功のあった知府の邢珣・徐璉・陳槐、御史の伍希儒・謝源も多くが考察で退けられていた。黄綰は朝廷に訴え、あわせて王守仁を召して輔政させるよう請うた。王守仁は制度どおりの支給を得、邢珣らも叙用された。
- 黄綰はまもなく大理左少卿に遷った。
- その年十月、張璁・桂萼が翰林の面々を外に追い出し、自分と親しい者を補ったので、黄綰が少詹事兼侍講學士として經筵に侍することになった。任子(廕による出身)で翰林の官となったのは、これ以前に例がない。
- 翌年、大典が成って詹事に進んだ。
聶能遷の誣告
- 錦衣僉事の聶能遷は、はじめ錢寧に付いて官を得たが、登極の詔の例によって百戸に戻された者である。のちに張璁・桂萼に付いて大禮を議し、しかも中官の崔文に取り入って旧職に復した。
- 大典が成って諸人がみな官階を進めたのに聶能遷だけが与らなかったので、大いに恨み、休職中の主事・翁洪に奏を草させ、王守仁が席書に賄賂を贈って召用を得たと誣告し、言葉は黄綰と張璁に及んだ。
- 黄綰は上疏して弁じ、あわせて身を引くことを願った。帝は手厚い旨で留め、聶能遷を法司に下して戍役に遣わし、翁洪も本籍に編して庶民とした。
張璁からの離反
- 黄綰は張璁らと深く親しかった。張璁は黄綰を吏部侍郎に用い、あわせて南京の試験を主宰させようとしたが、いずれも楊一清に抑えられた。また南方訛りを理由に經筵に加えられなかった。
- 黄綰は大いに憤り、上疏して楊一清をひどく誹ったが、その名は挙げなかった。帝は心中それが楊一清だと分かっていたので、浮ついた言葉だとして責めた。
- その年十月、南京禮部右侍郎として出され、諸部の印を広く預かった。
- 十二年、召されて禮部左侍郎に任ぜられた。はじめ黄綰は張璁と深く結んでいたが、このとき夏言が禮部の長官となり、帝がちょうど夏言を重用していたので、黄綰はひそかにこれに付き、張璁とは離れた。
- 黄綰が南京禮部を助けていたとき、郎中の鄒守益が病と称して辞したので、詔で黄綰に事実を調べさせたが、長く報告しないうちに鄒守益は去ってしまった。吏部尚書の汪鋐が張璁の意を汲んで上疏してこの件を暴き、詔で鄒守益の官を奪い、汪鋐に再調査させた。汪鋐はそこで黄綰が欺き隠したと弾劾し、張璁が旨を調えて三階級を削って外に出そうとした。
- ちょうど禮部が祈穀の導引官を請うたので、帝は黄綰を留めて職務に当たらせた。汪鋐はそこで再び上疏して黄綰を攻め、あわせて他の事も拾い上げた。帝はまた外任に移すよう命じた。
- 黄綰は上疏して自ら弁じ、汪鋐を張璁の鷹犬と誹り、禍を避けるため罷免を賜りたいと願った。帝は結局、黄綰が礼を議した功を思ってなお留任させた。黄綰はこれ以来、公然と張璁と対立するようになった。
大同の兵変の収拾
- はじめ大同で軍が変を起こして總兵官の李瑾を殺し、城に拠って守った。總制侍郎の劉源清と提督の郤永は城ごと屠ろうと議した。城中は恐れおののき、外に蒙古と通じて助けを求め、辺境は大いに動揺した。
- 巡撫の潘倣が急ぎ用兵の中止を請うと、劉源清は怒って馳せて上疏し、潘倣を厳しく誹った。張璁と廷議はいずれも劉源清に味方したが、黄綰だけが良策でないと述べた。
- 劉源清が罷免され、侍郎の張瓉が代わりに向かったが、着任しないうちに郎中の詹榮らが既に乱を鎮めた。しかし叛卒はまだ全員捕らえられておらず、軍民の傷は深かった。
- 代王が大臣を遣わして安撫するよう請い、疏が禮部に下されると、夏言はこれを許すべきだとして、先の用兵の誤りを極論し、言葉は張璁を侵した。張璁は怒って、遣わすまいと固執した。帝は委曲を尽くして取りなし、そのうえで特に黄綰に命じ、軍情を調べ功罪を検分し、臨機に処置してよいとした。
- 黄綰が大同に馳せ至ると、宗室・軍民が官軍の暴掠を訴える文書は百を数えたが、叛軍を訴える者はなかった。黄綰は一切問わずにその心を安んじた。叛軍のために蒙古へ使いした者があったので、これを捕らえて処刑した。
- 動揺した者が再び煽動し合ったので、黄綰は軍民を大々的に集めて禍福を説き諭し、被害を受けた者に文書を出させた。黄綰は問わぬふりをしてひそかにその文書を振給の官に渡し、里ごとに実態を調べさせ、一日で首謀者数十人を捕らえた。
- 卒の尚欽は一家三人を殺しており、免れないと恐れて夜に金を鳴らして乱を呼びかけたが、応ずる者がなく、そのまま捕らえられた。
- 黄綰はさらに人相書を作って首謀者数人に懸賞をかけたので、軍民は巻き添えを恐れなくなった。そこで役所に木柵を立てさせ保甲を置き、四隅に社学を創って軍民の子弟を教えさせた。城中は大いに安定した。
- 還朝して文武の将吏の功罪を列挙して上げ、劉源清と郤永を厳しく誹った。黄綰はその労によって俸を一等増された。張璁と兵部は劉源清をかばってひそかに黄綰を抑えたが、黄綰がたびたび上疏して論じ、帝の意もそちらに傾いたので、劉源清と郤永は結局逮えられた。
- 黄綰はまもなく母の喪で帰郷した。
朝鮮への使節と失脚
- 十八年、礼官が皇天上帝に大号を、皇祖に諡号を奉ったことについて、官を遣わして朝鮮に詔で諭すよう請うた。
- 当時、帝はちょうど安南の討伐を議しており、それにかこつけて様子をうかがおうとして、「安南もまた朝貢の国である。近年の叛服を理由に与らせぬわけにはいかない。大臣で学識ある者を選んで遣わせ」と言った。廷臣がたびたび名を挙げたがいずれも用いず、特に黄綰を起用して禮部尚書兼翰林學士として正使とし、諭徳の張治を副使とした。
- 帝はちょうど承天に行幸していたので、黄綰に行在に詣でて命を受けるよう促した。黄綰は行くのを嫌い、徐州まで来て先に使いを馳せて病で進めないと奏し、期日を過ぎた。帝は黄綰が行在に馳せ参ぜず船で京師に向かったのは大不敬だと責め、申し開きを命じたが、のちに許した。
- 黄綰はたびたび便宜を陳べ、両廣・雲貴の重臣を節制する権限を得たいこと、給事中・御史を遣わして同行させること、吏部・禮部・兵部の三部から郎官二人を選んで任にあたらせることを請い、帝はすべて従った。
- 最後に父母のための追贈を請い、あわせて立儲の恩例を引いて自分の官に相当する誥命を給するよう請うた。帝は怒って尚書の新しい任命を取り消し、侍郎として閑住させた。使節の事も結局取りやめとなった。
- 久しくして家で没した。
- 黄綰は任子から身を起こして卿・次官の位に至った。はじめ張璁に付き、晩年には張璁に背いて夏言に付いたので、当時はみな傾侫で狡猾と見なした。
大禮に乗じた者たち
- 大禮の議が起こったとき、張璁に次いで最初に上疏したのは襄府の棗陽王・祐楒である。その言葉は「孝廟はただ皇伯考と称すべきである。聖父は皇考興獻大王と称すべきである。興國の陵廟の祀りは天子の礼楽を用い、祝には『孝子皇帝某』と称すべきである。聖母には徽号を上って太妃と称し、宮中に迎えて養うべきである。そうすれば体を継ぐ道が失われず、天性の親も泯びない」というものである。世宗が即位した年の八月のことであった。
- これ以後、寵を望み立身を求める徒がぞろぞろと現れ、職を失った武夫や閑職の小吏まで腕まくりして目を怒らせ、廟謨を論じた。張璁・桂萼らでさえこれを称するのを恥じ、仲間に加えなかった。それゆえ張璁ら八人のほかは、おおむね特別の抜擢を受けなかった。
- 致仕した教諭の王价に至っては、諸臣に左遷・流罪・誅戮の刑を加えて朋党と欺瞞の罪を懲らすよう請うた。
- 最も見苦しかったのは南京刑部主事の歸安の人・陸澄である。はじめは追尊の非を極言していたが、喪が明けて都に入ったとき、『明倫大典』は既に定まり、張璁・桂萼が大いに権を振るっていた。そこで陸澄は「はじめは人に誤らされたのだ。我が師の王守仁に質して大いに悔い恨んだ」と言った。桂萼はその言葉を喜んで禮部主事に任ずるよう請うたが、帝は陸澄の以前の疏を見て憎み、髙州通判に左遷して去らせた。
席書による議礼の功の整理
- 嘉靖四年七月、席書が『大禮集議』を編もうとして述べた。近ごろ刊行を請う上申が多いが、三年以前の建言に関わるものが多い。臣書および張璁・桂萼・方獻夫・霍韜が正しく採るべきとするのは五人にすぎない。すなわち禮科右給事中の熊浹、南京刑部郎中の黄宗明、都察院經歴の黄綰、通政司經歴の金述、監生の陳雲章、儒士の張少連および楚王・棗陽王の二宗室である。そのほか付随して採るべきものは六人にすぎない。
- 同時に建議した者でも、監生の何淵、主事の王國光、同知の馬時中、巡檢の房濬のように、言葉が純正でなく義が正しくないものは採らない。その他、職を罷められ閑職にあった者で、張璁・桂萼らが召用されてから建言した者は、みな風向きを見て旨に迎合し、望むところがあったのであるから、これも一切録さない、と。
- 錦衣百戸の聶能遷と昌平の致仕教諭・王价の建言は三年二、三月のことで採録されていなかったが、この二人が名を付け加えてほしいと奏したので、その請いのとおりにされた。帝は従い、あわせて詔して、大禮は既に定まったのだから、今後これに託して上奏する者は必ず罪して許さないとした。
秦鏜の上書
- 十二年正月、蒲州の諸生・秦鏜が闕下に伏して上書して述べた。孝宗の統は武宗で終わったのだから、獻皇帝は孝宗に対して実に「兄終われば弟及ぶ」に当たる。陛下は獻皇帝の統を承けられたのだから、太廟に奉るべきである。ところが張孚敬は礼を議して別に世廟を創って祀り、昭穆の序に加えられぬようにした。これは幽閉するのと同じである。
- また、天地・日月を四郊に分けて祀るのは尊卑大小の序を失っている。先師の王号を除き、その塑像を撤し、礼楽を減らし、啟聖祠を増やしたのは、いずれも聖祖の意ではない。もとに復されたい、と。
- 帝は奏を得て激怒し、上を毀って道に外れると責め、詔獄に下して厳しく訊問し、主謀者を供述させた。秦鏜は「みだりに議して恩を望んだのであって、実は主使する者はない」と認めた。そこで妖言の律に当てて死罪とされ、獄に繋がれた。
- その後、さらに豐坊の請いによって、獻皇帝が廟に入って宗と称し上帝に配されるに至ったが、そのころには張璁らは既に死んでいて見ずに終わった。
史論
- 贊に曰く。嘉靖のはじめ、生みの親を追崇しようとされたのは「帝」と称し「考」と称するにとどまり、孝宗の称については異論はなかった。
- 席書らが邪説を次々と進め、張璁・桂萼と付和し、どうしても孝宗を「皇伯考」に改めようとしたのは、その意がひとえに主君の知遇を得ることにあっただけである。
- のちに興獻が廟に入って宗と称されたことについて、論者はそれが諸人の唱えはじめた本心ではないと言う。だが既に孝宗を伯としてしまえば、興獻が廟に入って宗と称されるのは勢いとして必至である。どうしてその責めを曲げて免れさせられようか。
- 席書と霍韜は官にあって建てるところがあったとはいえ、功は罪を覆えない。熊浹と黄宗明がいくらか身を慎んで当時に容れられたことも、また何ほどのことでもない。黄綰の傾侫と狡猾に至っては、なおさら語るに足りない。