明史卷一百九十七 列傳第八十五 黄宗明

出自と大禮の連名上疏

  • 黄宗明は字を誠甫といい、鄞の人である。正徳九年の進士で、南京兵部主事に任ぜられ、員外郎に進んだ。かつて王守仁に従って学を論じた。
  • 寧王宸濠が反すると江防の三策を奉った。武宗が南征したときは抗議の疏を奉って諫めた。まもなく暇を請うて帰郷した。
  • 嘉靖二年、南京刑部郎中に起用された。張璁・桂萼が大禮を争って南京から都に召され、まだ着任しないうちの三年四月、張璁・桂萼・黄綰および黄宗明が連名で上疏して述べた。
  • 今日の尊崇の議において、陛下を「人の後となった者」とするのは礼官が付和した私見であり、陛下を「入って大統を継いだ者」とするのは臣らが経を考えた論である。
  • 人は「二つの議が対立するとき、大小・多寡で敵わぬ勢いがある」と言う。臣らは「ただ理があるのみ」と申す。
  • 大いなるかな舜の君たるや。天下が喜んで己に帰するのを草芥のように見ながら、父母に順わぬことだけは、行き場のない窮人のように思われた。
  • いま言う者は私に従い党を植え、天子の父母を奪って顧みない。陛下は一日たりともその位に安んじて図らずにおられようか。
  • これは、聖諭で廷臣に集議を命ぜられても終日互いに顔を見合わせて誰も先に口を開かないのは、勢いに押され理に屈しているからである。臣らは、欺き蔽い先延ばしにして、ついに大孝を成し遂げられなくなることを大いに恐れる。
  • 陛下はなぜ自ら朝堂に出て百官を進ませて問われないのか。こう仰せられるがよい。朕は憲宗皇帝の孫、孝宗皇帝の姪、興獻帝の子として、太祖の「兄終われば弟及ぶ」の文に遵い、武宗の「血縁の順序からして立つべし」との詔を奉じて入って大統を承けたのであり、人の後となったのではない。先には詳しく考えぬまま急ぎ天下に詔して孝宗皇帝を皇考、昭聖太后を聖母と尊び、興獻帝・后には別に「本生」の称を加えた。朕は深く悔いている。いまこそ父子の大倫と継統の大義を明らかにし、孝宗を「皇伯考」、昭聖を「皇伯母」と改称し、「本生」の称を除いて「皇考恭穆獻皇帝」「聖母章聖皇太后」とする。これは万世に通ずる礼である。汝ら文武の廷臣は父子の親と君臣の義を思い、朕とともに大倫を天下に明らかにせよ、と。
  • このようにすれば、朝廷の百官で感泣して詔を奉じない者があろうか。さらにこれを天下万民に告げて、感泣して詔を奉じない者があろうか。これこそ『周禮』にいう群臣に諮り万民に諮るの意である、と。
  • 奏が入ると帝は大いに喜び、結局その言のとおりになった。黄宗明もこれによって帝の寵を得た。