明史卷一百九十六 列傳第八十四 張璁
永嘉の人、字は秉用、のち名を孚敬・字を茂恭と賜った(?–1539年)。会試に七度落第し、四十七歳でようやく及第した遅咲きの官人。世宗の生父・興獻王の追尊をめぐる「大禮の議」で、廷臣の総反対を押し切って帝の意に沿う説を唱え、一躍寵臣となった。李福達の獄などで反対派を大量に失脚させ、及第から六年で内閣に入り、のち首輔に至る。剛毅果断で贓吏を憎み、勲戚の荘田整理や鎮守内臣の廃止を進めた一方、執念深い報復で朝廷じゅうの怨みを買った。没後に文忠と諡され太師を贈られたが、大禮と大獄による謗りは死後まで残った。
年表(18件)
- 正徳十六年1521年会試に七度落第したのち四十七歳で及第する
- 正徳十六年1521年七月朔に上疏し、興獻王を尊ぶ大禮の議を唱えて帝に喜ばれる
- 嘉靖三年1524年正月の廷議を受けて再び上疏し、桂萼の疏とともに上げられて京に召される
- 嘉靖三年1524年五月に都に着き、廷臣の撲殺の企てを逃れて翰林學士に任ぜられる
- 嘉靖三年1524年九月、その議によって尊称が定まり、帝の信任がいよいよ厚くなる
- 嘉靖四年冬大禮の集議が成って詹事兼翰林學士に進む
- 嘉靖五年七月墓参を理由に暇を請うが、兵部右侍郎に任ぜられて留まる
- 嘉靖六年二月王邦奇の獄を起こして楊廷和らを陥れ、費宏と石珤を同日に罷免させる
- 嘉靖六年冬禮部尚書兼文淵閣大學士となり機務に参ずる
- 嘉靖七年正月太子太保を加えられ、辞退して少保兼太子太保に改められる
- 嘉靖八年秋陸粲の弾劾により罷免され、天津まで来たところで召し戻されて首輔となる
- 嘉靖十年二月名が御諱に触れるとして改名を請い、孚敬・茂恭の名字を賜る
- 嘉靖十一年三月薛侃の獄が露見して致仕したのち召し戻され、還朝する
- 嘉靖十一年八月彗星が東井に現れ、秦鼇の弾劾を受けて致仕を許される
- 嘉靖十二年四月三たび召されて還朝する
- 嘉靖十三年少師兼太子太師・華葢殿大學士に進む
- 嘉靖十四年春病を得て帝から薬を賜り、たびたび辞職を願って護送され帰郷する
- 嘉靖十八年二月1539年没し、文忠と諡されて太師を贈られる
篇首の立伝者一覧
- 張璁(胡鐸)
- 桂萼
- 方獻夫
- 夏言
出自と登第
- 張璁は字を秉用といい、永嘉の人である。郷試には合格したが会試には七度落第した。
- 選考を受けようとしていたころ、星術に通じた御史の蕭鳴鳳が「これから三年で進士となり、さらに三年で一気に貴顕になる」と告げたので、張璁は帰郷した。
- 正徳十六年(1521年)に及第した。すでに四十七歳であった。
大禮の議、最初の上疏
- 世宗が即位したばかりのころ、生父の興獻王を追尊する議が起こったが、廷臣が反対して押しとどめ、議は三度上げられて三度退けられた。
- 張璁はこのとき禮部で実務見習いの身であったが、この年の七月朔に上疏して述べた。
- 孝子の極致は親を尊ぶことより大きなものはなく、親を尊ぶ極致は天下をもって養うことより大きなものはない。陛下が大位を継がれるとすぐ、聖考を追尊してその号を正し、聖母を迎えて奉養を尽くそうと議されたのは、まことに大孝である。
- 廷議は漢の定陶王・宋の濮王の故事を持ち出し、「人の後となる者はその子となり、私親を顧みてはならない」と言う。だが天下に父母のない国があろうか。『記』に「礼は天から降るのでも地から出るのでもない、人情によるだけだ」とある。
- 漢の哀帝と宋の英宗はもとより定陶王・濮王の子であるが、成帝と仁宗はいずれもあらかじめ嗣として立て宮中で養った。人の後となる義がはっきりしている。だから師丹や司馬光の議論はその場合には通用した。
- いま武宗に嗣がなく、大臣が祖訓に従い、陛下の血縁の順序からして立つべきだとして迎え立てたのであり、遺詔にはただ「興獻王の長子」とあるだけで、人の後となる義は明記されていない。つまり陛下の即位は祖宗の統を承けたものであって、あらかじめ嗣に立てて宮中で養った場合とは明らかに異なる。
- 議者は孝廟の徳沢が人心にあるのだから後嗣がなくてはならぬと言う。だがもし聖考が存命で今日の位を継がれたなら、弟が兄の後となる義もなかったことになろう。
- また聖母を迎えて養うのは母として親しむからである。「皇叔母」と称すれば君臣の礼で会わねばならず、子が母を臣とする義はなかろう。
- 礼では長子は人の後となれない。聖考は陛下ただ一人を生んだのである。天下を得るために人の後となるのでは、子が自ら父母との縁を絶つ義はなかろう。
- ゆえに陛下について、祖宗の後を継ぎつつ親を尊ぶことを廃さないと言うのはよいが、人の後となって自ら親との縁を絶つと言うのはよくない。
- そもそも統と嗣は別で、必ず父が死んで子が立つとは限らない。漢の文帝は惠帝の後を承けたが弟として継ぎ、宣帝は昭帝の後を承けたが兄の孫として継いだ。もし必ずこの父子の親を奪ってあの父子の号を立てなければ継統と言えないのなら、古に「髙伯祖」「皇伯考」と称した例はみな統でないことになるのか。
- 臣が思うに、今日の礼としては、京師に別に聖考の廟を立て、親を尊ぶ孝を尽くさせ、かつ母は子によって貴くなり尊きこと父と同じとされれば、聖考は父たることを失わず、聖母は母たることを失わずに済む、と。
- 帝はちょうど廷議に押さえられていたところで、この疏を得て大いに喜び、「この論が出たからには、我が父子は全うされる」と言い、急いで廷臣に議させた。
- 廷臣は大いに驚き怪しんで一斉に攻撃し、礼官の毛澄らは従来どおりの主張を曲げなかった。
- ちょうど獻王妃が通州に至り、尊称の礼が定まっていないと聞いて足を止め、入ろうとしなかった。帝はこれを聞いて泣き、位を避けて藩に帰ろうとした。
- 張璁はそこで『大禮或問』を著して奉った。帝はこれによって続けざまに礼官の疏を退けた。廷臣はやむなく合議して、孝宗を「皇考」、興獻王を「本生父興獻帝」と尊称することにした。
- 張璁も南京刑部主事に任ぜられて去り、追崇の議はいったん止んだ。
嘉靖三年の再上疏と大禮の決着
- 嘉靖三年(1524年)正月、帝は桂萼の疏を得て心を動かし、再び廷議に下した。汪俊が毛澄に代わって禮部を掌ったが、主張は毛澄と同じであった。
- そこで張璁はまた上疏して述べた。
- 陛下は「兄終われば弟継ぐ」の訓に従い、血縁の順序からして立たれた。礼官は、陛下が実は大統を継いで入られた君であることを思わず、無理に人の後となる例に当てはめ、獻帝との天性の恩を絶ち、武宗から伝わった統を無視して、陛下の父子・伯姪・兄弟の名実をすべて紊乱させた。天子に背いても権臣には逆らえぬというのは、いったいどういう心か。
- 聖諭に「興獻王は朕一人を生んだだけである。位を継がせることもできず、美称も奉れず、際限のない恩をどうやって報いればよいのか」とあるのを拝見した。執政は上の心を推し量り、追尊が重大であると見て取ったので、今日は「帝」の一字を争い、明日は「皇」の一字を争う。そして陛下の心も日々「帝ならず皇ならず」を欠けたるものと思うようになる。やがて「帝」と加えて陛下の心はもう慰められたろうとし、そこで「皇」の一字を残して陛下の将来の未練を探ろうとする。そのうえで敢えて孝宗を「皇考」と称し、興獻帝を「本生父」と称した。父子の名が既に変えられたのに、推崇の義はどこにあるのか。しかもにわかに詔して天下に告げ、陛下の気づかぬ間に不孝に陥れたのである。
- 礼に「君子は人の親を奪わず、また親を奪われてもならぬ」とある。陛下は万乗の尊にありながら、父子の親を人に奪われ、しかもそれを黙認されるのか。
- ゆえに今日の礼は「皇か皇でないか」ではなく、「考とするかしないか」にある。もし「皇」の一字を争うだけなら、執政は必ずそれで今日の議論を塞ぎ、陛下もそれで今日の心を満たされてしまう。臣は、天下の礼を知る者が必ずいつまでも非難し笑うことを恐れる、と。
- 桂萼の第二の疏と同時に上げられた。帝はいよいよ喜び、ただちに二人を京に召した。
- 命がまだ届かぬうちに、二人と黄宗明・黄綰がまた連名の疏で力争した。獻帝が「本生皇考」と改称されると、閣臣は尊称が既に定まったとして召命の停止を請い、帝はやむなく従った。
- 二人はすでに道中にあり、また馳せて上疏した。礼官は臣らと面と向かって論じるのを恐れ、先手を打ってこの手を使い私を通そうとしている。速やかに「本生」の称を除かなければ、天下後世は陛下を孝宗の子と考え、礼官の欺瞞にはまってしまう、と。
- 帝はいよいよ心を動かし、二人を急ぎ召した。五月に都に着き、さらに七事を条列して上げた。
- 衆はいきり立って二人を撲殺しようとした。桂萼は恐れて外へ出られず、張璁は数日たってようやく朝に出た。給事中・御史の張翀、鄭本公らが続けざまに上章して力攻したので、帝はいよいよ不快となり、特に二人を翰林學士に任じた。
- 二人は固辞し、あわせて廷臣の非を面と向かって論破したいと請うた。給事中・御史の李學曾、吉棠らは「張璁と桂萼は学を曲げて世に阿る、聖世が必ず誅すべき者だ。傳奉によって學士とするのは聖徳の傷が小さくない」と述べた。御史の段續と陳相もまた個別に上疏して論じ、あわせて席書にも及んだ。
- 帝は李學曾らに申し開きを命じ、段續と陳相を詔獄に下した。刑部尚書の趙鑑もまた張璁・桂萼を法に照らして処罰するよう請い、人に「裁可が下りたら打ち殺してやる」と語った。帝は徒党を組んで奸をなすと責め、これにも申し開きを命じた。
- 張璁と桂萼はそこでさらに欺罔の十三事を列挙して廷臣を論破した。廷臣が闕下に伏して哭して争うと、ことごとく詔獄に繋がれ、杖を加えられ、杖下に死んだ者が十余人、左遷・流罪が相次いだ。これによって張璁らの勢いは大いに張った。
- その年九月、ついにその議によって尊称が定められ、帝はいよいよ張璁・桂萼を信任した。張璁・桂萼はいっそう寵を恃んで廷臣を敵視し、朝廷じゅうの士大夫がこの数人に歯噛みするようになった。
内閣入りと費宏らの排斥
- 四年冬、大禮の集議が成って詹事兼翰林學士に進んだ。のちに世廟の神道・廟樂・武舞および太后の廟参りが議されたときも、帝はもっぱら張璁の言に拠って決した。張璁は経書の文で飾りをつけ、うまく帝の意に合わせたので、帝はいよいよ重んじた。
- 張璁は権を握ることを急いだが、大學士の費宏に抑えられたので、桂萼とともに連名で費宏を攻撃した。帝もその事情を知っていて、費宏を留めてすぐには退けなかった。
- 五年七月、張璁は墓参を理由に暇を請い、辞去の挨拶を済ませたところで、帝はまた兵部右侍郎として兼官はもとのままとした。給事中の杜桐・楊言・趙廷瑞が相次いで厳しく誹り、あわせて吏部尚書の廖紀が邪人を登用していると弾劾した。帝は怒って厳しく責めた。両京の給事中・御史である解一貫・張録・方紀達・戴繼先らがまた相次いで論じてやまなかったが、いずれも聞き入れられなかった。
- まもなく張璁は左侍郎に進み、また桂萼とともに費宏を攻めた。翌年二月、王邦奇の獄を起こして楊廷和らを陥れ、費宏と石珤が同じ日に罷免された。
- 吏部郎中の彭澤が軽率であるとして退けられると、張璁は「かつて礼を議したとき、彭澤は臣に『大禮或問』を進めるよう勧め、そのために衆の忌みを招いた。いま諸臣は彭澤を除き、順に臣らを除こうとしている」と述べたので、彭澤は留任できた。
- 三日おいてまた述べた。臣は朝廷じゅうと四、五年抗し、朝廷じゅうから百十通もの弾劾を受けた。いま大禮の全書を編むにあたって、元凶は肝を冷やし群奸は横目でにらんでいる。それゆえ要略を進めたばかりで讒謗が湧き起こった。全書が完成すれば誣告はいっそう激しくなろう、と。そのうえで病と称して退官を求め、帝を動かそうとした。帝は手厚い詔で慰留した。
- 吏部の尚書に欠員が出たとき、前尚書の喬宇と楊旦が推挙され、禮部尚書にも欠員が出て侍郎の劉龍と溫仁和が推挙された。溫仁和が俸給の年数を根拠に争ったので、張璁は「喬宇と楊旦は楊廷和の党であり、溫仁和も自薦すべきではない」と述べた。帝は、致仕した大臣は詔がなければ推挙してはならぬと命じ、喬宇らは廃された。
李福達の獄と入閣
- 張璁は廷臣への怒りを積もらせ、日々報復を謀っていた。
- ちょうど山西巡按の馬録が反賊・李福達の獄を裁いたとき、供述が武定侯の郭勛に及び、法司も馬録の擬律どおりに裁いた。張璁は帝に讒言し、「廷臣は礼を議したことを恨んで郭勛を陥れている」と述べた。帝は果たして諸臣が徒党を組んでいると疑い、張璁に都察院を、桂萼に刑部を、方獻夫に大理を代行させ、審理をやり直させた。
- その結果、獄はすべて覆され、自分に従わない者はことごとく倒された。大臣の顏頤壽・聶賢以下がみな拷問を受け、馬録らは罪に問われて遠方に流された。帝はますます有能と見て、便殿で労い、二品の官服と三代への封誥を賜った。
- 京察および言官の相互糾弾で既に御史十三人が退けられていたが、張璁は都察院を掌るとさらに考課を請うて十二人を退けた。また憲綱七条を奏して施行し、巡按御史を締めつけた。
- その年の冬、ついに禮部尚書兼文淵閣大學士に任ぜられ、機務に参じた。及第から六年しか経っていなかった。
楊一清との確執
- 楊一清が首輔で、翟鑾も内閣にいたが、帝の待遇は張璁ほどではなかった。かつて張璁に「朕に密諭があれば漏らすな。朕と卿の間の書付はことごとく自筆で書く」と諭した。
- 張璁が仁宗が楊士奇らに銀の印章を賜った故事を引いたので、帝は張璁に二つの章を賜った。文はそれぞれ「忠良貞一」「繩愆弼違」であり、あわせて楊一清らにも賜った。
- 張璁がはじめて學士に任ぜられたとき、翰林の面々はこれを恥じて並び立とうとしなかったので、張璁は深く恨んだ。侍讀の汪佃が『洪範』を講じて意にかなわず、帝が外任に出せと命じたのを機に、張璁は講讀以下を才能に応じて外任に補すよう請い、官を移された者と罷免された者は二十二人に及び、庶吉士はみな各部の属官や知縣に任ぜられた。これによって翰林院は空になった。
- 七年正月、帝が朝を視たとき、張璁・桂萼の班が兵部尚書の李承勛の下にあるのを見て、内心不快に思った。楊一清が散官を加えるよう請うたので、手勅で二人に太子太保を加えた。張璁は東宮が立てられていないのだから官を設けるべきでないと辞退し、そこで少保兼太子太保に改められた。『明倫大典』が成るとさらに少傅兼太子太傅・吏部尚書・謹身殿大學士に進んだ。
- 楊一清が再び宰相になったのは張璁・桂萼の力によるところが大きく、心を傾けて二人に接したが、張璁は結局楊一清に押さえられて思うようにならず、そこで反目するようになった。
- 指揮の聶能遷が張璁を弾劾したとき、張璁は死罪にしようとしたが、楊一清が擬した旨はやや軽かったので、張璁はいっそう恨み、楊一清を奸人・鄙夫と罵った。楊一清は重ねて上疏して退官を願い、あわせて張璁の隠された事情を刺した。帝は手勅で慰留し、そのなかで張璁が自分の能を誇り寵を恃んで譲らないのは嘆かわしいと極言した。張璁は帝が突然自分の短所を暴いたのを見て、大いに恥じ入り気落ちした。
罷免と首輔就任
- 八年秋、給事中の孫應奎が楊一清と桂萼を弾劾し、あわせて張璁にも及んだ。その同僚の王準もまた、張璁が參將の陳璠に私しているから退けるべきだと弾劾した。張璁は二度辞職を願い、言葉の多くはひそかに楊一清を誹るものだった。帝は張璁を褒める諭を出したが、給事中の陸粲がまた張璁の威福を専らにし恩讐に報復していると弾劾したので、帝は大いに悟るところがあり、ただちに張璁を罷免した。
- ほどなくその一党の霍韜が楊一清を力攻し、それとなく張璁の潔白を訴えた。張璁が天津まで来たところで、帝は行人に手勅を持たせて召し戻し、楊一清はそのまま罷めて去り、張璁が首輔となった。
礼制の改定
- 帝は自ら廷議を排して大禮を定めてから、礼楽の制作を自任するようになり、そこへ夏言が用いられ始めた。
- そこで、皇后の親蠶、勾龍と棄を社稷に配すること、天地を分けて祭ること、太宗の配祀を罷めること、朝日・夕月に東西の二郊を別に建てること、髙禖を祀ること、文廟に神主を設けて従祀の諸儒を改めること、徳祖を祧って太祖を南向に正すこと、祈穀、大禘、帝社・帝稷などが議された。
- 上奏は必ず張璁に議させたが、帝は独断で採り、張璁の言もすべては容れられなかった。太宗の配天を罷めることを諫めて三、四度やり取りしたが、結局止められなかった。
- 十年二月、張璁は名が御諱に触れるとして改名を請い、そこで名を孚敬、字を茂恭と賜り、御筆の四大字を賜った。
張孚敬――薛侃の獄と二度目の罷免
- 夏言は帝の寵を恃んでたびたび事にかこつけて孚敬を告発した。孚敬は恨んでいたが手立てがなかった。
- そこで彭澤の言を容れて行人司正の薛侃を陥れ、薛侃を通じて夏言を害そうとしたが、廷での取り調べで事が露見した。旨が下ってその邪心と欺罔を斥け、御史の譚纘、端廷赦、唐愈賢が相次いで弾劾した。帝は法司に諭して致仕させ、孚敬は大いに恥じて去った。
- まもなく行人を遣わして勅を持たせ召し戻した。翌年三月に還朝したが、夏言は既に禮部尚書に抜擢されていよいよ権を振るい、李時・翟鑾が内閣にあり、方獻夫が続いて入ったので、孚敬もかつてのように専断はできなくなった。
- 八月、彗星が東井に現れた。帝は大臣が政を専らにしていることを疑った。孚敬は辞職を求めた。都給事中の魏良弼が孚敬の奸を誹ると、孚敬は「魏良弼は京營の官をみだりに推挙して俸を奪われた。それが臣の擬した旨によるものだったので、私怨を挟んで報復しているのだ」と述べた。給事中の秦鼇は「孚敬は強弁して奸を飾り、言官が論列すればそのつど罪をこじつける。旨を擬するのに秘密を守らず、わざと自分の手柄として、中外に天子の権が自分の掌中にあるかのように示している」と弾劾した。
- 帝は秦鼇の言を是とし、孚敬に自ら申し開きさせたうえで致仕を許した。李時が扶持米と従者、勅書を給するよう請うたが許されず、再度請うてようやく駅伝で帰ることができた。
- 十二年正月、帝はまた孚敬を思い出し、鴻臚を遣わして勅を持たせて召した。四月に還朝した。六月、彗星がまた畢と昴の間に現れたので、位を避けたいと願ったが許されなかった。
- 翌年、少師兼太子太師・華葢殿大學士に進んだ。
張孚敬――大同の用兵をめぐる対立と晩年
- はじめ潞州で陳卿が乱を起こしたとき、孚敬は用兵を主張して賊はついに滅んだ。大同で再び乱が起きたときも用兵を主張し、劉源清を總督に推薦したが、長く戦っても功がなかった。
- その後、乱が収まると代王が大臣による安撫を請うた。夏言は用兵の誤りを力説して代王の言のとおりにするよう請い、その言葉には孚敬を侵すものが多かった。孚敬は怒って代王の疏を握りつぶした。帝は夏言と仲良くするよう諭し、黄綰を大同に遣わして状況に応じて処置させた。
- 孚敬は議が用いられなかったので、病と称して辞職を願い、疏を三度上げた。やがて子が死ぬと願いはいっそう強くなった。帝は「卿に病はない。朕を疑っているのだ」と答えた。孚敬はまた上奏して自らの過ちを認めず、しかも同じく礼を議した桂萼・方獻夫・霍韜・黄綰らを歴々と誹った。帝が詰責したので、ようやく復帰して職務に就いた。
- 帝は文華殿の後ろに九五齋と恭黙室を建てて斎居の場所とし、輔臣に詩を賦させた。孚敬と李時はそれぞれ四首を作って奉った。のちしばしば便殿に召され、ゆったりと政を議した。
- 十四年春、病を得た。帝は中官を遣わして酒と犠牲を賜り、李時にはその執拗さと、人材を惜しまず怨みを集めた様子を語った。また中官を遣わして薬を賜り、手勅に「古には髭を切って大臣の病を療した者がある。朕はいま自分が服したものを卿に賜る」と述べた。
- 孚敬は温かい諭を得たので、たびたび上疏して辞職を願った。行人と御医に護送させて帰らせ、役所には制度どおり扶持米と従者を給させた。
- 翌年五月、帝はまた錦衣の官を遣わして手勅を持たせ、病を見舞って帰参を促した。金華まで来たところで病が重くなり、そのまま帰った。十八年二月に没した(1539年)。帝は承天にあってこれを聞き、深く悼んだ。
張孚敬――人となりと評価
- 孚敬は剛毅明敏で果断、嫌疑や怨みを避けなかった。主君に遇せられてからは、時に正論も述べた。
- 帝が張延齡を謀反として一族を誅そうとしたとき、孚敬は「張延齡は財を守るだけの俗物です。どうして謀反ができましょう」と諫争した。何度問い詰められても答えは同じだった。
- 秋が尽きて処断すべきときになると、孚敬は上疏して「昭聖皇太后は高齢である。にわかに張延齡の死を聞いて、万一食を絶つなどのことがあれば、何をもって敬皇帝の在天の霊を慰めるのか」と述べた。帝は怒って「古来、強臣と有能な君の例は一つではない。いま死囚をかばうのが有能な君のすることか。楊廷和に従って敬皇帝に仕えなかったことを悔いているのか」と責めた。帝はわざと重い言葉で孚敬を止めようとしたのだが、孚敬は引かなかった。そのため昭聖皇太后の存命中は張延齡は繋がれたままで済んだ。
- そのほか、勲戚の荘田を整理し、天下の鎮守内臣を前後してほぼ全廃したのも、みな孚敬の力である。
- 身を持することはとりわけ廉直で、贓吏を痛烈に憎み、一時は賄賂の道が絶えた。
- しかし気性は執念深く、報復が相次ぎ、善良の輩をかばわなかった。臣下の私党を力ずくで破ろうとしながら、自分がまず党の首領になっていたのである。大禮と大獄によって死後まで謗りが集まった。
- ただ帝は終始礼遇して、廷臣で並ぶ者はなかった。かつて「少師羅山」と号で呼んで名を呼ばなかった。
- 没したとき礼官が諡を請うと、帝は「身を危うくして上に奉ずる」の意を取り、特に文忠と諡し、太師を贈った。
胡鐸
- 当時、胡鐸という者があった。字は時振、餘姚の人である。𢎞治末の進士で、正徳のうちに福建提學副使となり、嘉靖のはじめ湖廣參政に遷り、南京太僕卿まで累進した。
- 胡鐸は張璁と同じ郷試の出身である。大禮の議が起こったとき、胡鐸も獻王を「考」とする説を主としており、張璁と一致していた。張璁が連名を求めると、胡鐸は答えた。
- 主上の天性はもとより背けず、天下の人情もまた逆らえない。しかし獻王を考とするだけでは済まず、次には宗号を立てることになり、宗号を立てれば廟入りとなり、廟入りとなれば祧遷が生ずる。藩封の虚号の帝によって君臨し治世を行った宗を退けるのは、義として不可である。廟に入れば位次がある。武宗の上に置くのか、下に置くのか。生きて臣であった者が、死んで君の上に躋ることはできない。とはいえ魯にはかつて僖公を躋らせた例がある。後日、夏父のような徒が現れぬとも限らない、と。
- 張璁の議はそのまま上げられ、ほどなく召された。胡鐸はちょうど服喪を終えて京に赴いたところで、張璁がまた連名の疏を求めたが、胡鐸は書を返して辞退し、あわせて継統の義について論じ合った。
- 大禮が定まると、胡鐸はまた書を送って、礼を議して罪を得た者たちを召し戻し和平の福を養うよう勧めたが、張璁は従えなかった。
- 胡鐸は王守仁と同郷であるが、その学を宗としなかった。張璁と同じく獻王を考とすることを是としながら、ともに進もうとはしなかった。ただし継統について「国統が絶えて君を立てるのは、賢を立てる意を寓するものだ」と論じたのは、大いに誤りである。