明史卷一百九十四 列傳第八十二 梁材

出自と地方官としての実績

  • 梁材は字を大用といい、南京金吾右衛の人である。𢎞治十二年(1499年)の進士で、徳清知縣に任ぜられ、勤勉機敏で際立った治績を挙げた。
  • 正徳のはじめ刑部主事に遷り、御史に改まり、嘉興知府として出て、杭州に移った。田租の基準がまちまちだったので、梁材は軽重を勘案して統一の法を立てた。
  • 浙江右參政に遷り、按察使に進んだ。鎮守中官の畢真が宸濠と通じ城を挙げて呼応しようとしたので、梁材は巡按の張縉とともに畢真を捕らえてその兵衛を奪った。まもなく喪で去った。
  • 嘉靖のはじめ雲南に補された。土官が何年も互いに殺し合っていたので、梁材はその酋長を召して「汝の罪は死に当たる。今は許してやるから牛羊で贖え」と言った。御史がその軽さを訝ると、梁材は「これで十分だ。急がせれば変事が起こる」と言った。諸酋長は鎧を着込んで異変に備えていたが、他意がないと聞いてやめた。
  • 貴州・廣東の左右布政使を歴任した。吏民の納税は自ら秤を扱わせ、胥吏を関与させなかった。当時、天下の布政使で廉直の名が最も高い者が二人あり、梁材と姚鏌であった。

戸部尚書としての財政整理

  • 六年、右副都御史に任ぜられて江西を巡撫し、わずか二か月で召されて刑部左侍郎となり、まもなく戸部に移り、そのまま鄒文盛に代わって尚書となった。地方官から六卿に登るまで二年に満たなかった。
  • 恩を受けたことが深いと自覚し、いっそう職務に励んで上言した。昨年の歳入を調べると百三十万両にすぎないのに、支出は二百四十万に達している。督促しても徴収は進まず、辺境の費用に節度がなく、凶作も多くて免除の奏請が相次ぐ。国家の会計はどうやって賄えばよいのか。弊害の根を詳しく求めると、一に宗藩、二に武職、三に冗食、四に冗費、五に逋負である。廷臣を集めて計画を立て、条項を挙げて奏請させられたい、と。
  • そこで宗藩と武職についてそれぞれ三事が上申され、その他はみな厳しく節減することとなり、帝はすべて認めた。ただし閑住の武職の俸を半減するという議だけは容れなかった。経費は大いに省かれ、国用も充実した。
  • 中官の麥福が牧馬の草場の租をすべて徴収するよう請うたが、梁材は不可とした。
  • 侍郎の王軏が勲戚の荘田を整理し、等級に応じて上限を設けるべきだと述べたとき、梁材は奏した。成周では班禄に土田が伴い、禄は田から出た。通常の禄のほかに別に土田があったのではない。いま勲戚の禄は既に分を越えているのに、願い出る額が千万に及ぶ。禁止を申し渡し、特別の賜与を除いては三分の一を残して祭祀の費に充てるべきである、と。帝は既に賜った分についても額外の侵占を調べてすべて民に返すよう命じ、勢家・豪族はみだりに願い出られなくなった。
  • 畿輔の屯田はもと御史が監督していたが、正統年間に僉事に代えたため権限が軽く、屯政は日に緩んでいた。梁材は御史に戻すよう請うた。
  • 御史の郭𢎞化が「天下の土田は国初の半分に減っている。一斉に測量すべきだ」と述べたのに対し、梁材は騒動を恐れ、担当の官に整理を命ずるにとどめ、帳簿で確かめがたいものだけ実地に測量させるよう請うた。帝はいずれも認めた。

郭勛との対立と失脚

  • 母の喪で去り、喪が明けると旧官に起用された。
  • 大同巡撫の樊繼祖が軍餉の増額を請うたとき、梁材は述べた。大同の年餉は七十七万有余、例外の送金も累万に及び、以前と比べて既に数倍である。日ごとに増やせば太倉の銀は一鎮すら賄えなくなる。まして九辺全体ではなおさらである、と。樊繼祖は再三請うても認められず、開事例(納粟による官職売買)を議して戸部・兵部に下して施行させた。
  • 当時、両宮七陵の修築で京軍七万を役していた。郭勛が月糧と冬衣の支給を請うと、梁材は「先例にない。願いどおりにすれば年に銀四十五万を費やす。しかも冬衣は内庫から出すのが例で、部の所管ではない」と述べた。郭勛は怒って梁材が公務を誤ったと弾劾し、帝は梁材を詰責して、結局郭勛の奏のとおりにさせた。
  • 郭勛はさらに三事を建言した。鉱山を開いて工事を助けること、余塩をすべて辺境に納めること、漕卒に貨物の携行を認めることである。梁材の審議で全部は通らなかったので、郭勛はいっそう怒った。
  • 梁材ははじめ戸部にあったころ、帝が政に励んで積弊の除去に努めていたので提案が多く容れられたが、この時期には権勢者・寵臣にたびたび逆らって志を得られなかった。そこで南京への転任を願い出たところ、給事中の周珫に弾劾された。吏部に下されると尚書の許讃らが留任を請うたので、帝は不快として梁材ともども事情を申し開かせた。梁材は罪を認めて赦されたが、許讃らは俸を奪われた。梁材はこれによって帝の意を失い、尚書の六年の考課期間が満ちると致仕させられた。
  • はじめ徽王の荘園管理人が小作人と訴訟になったとき、梁材は管理人を廃して役所から王に租を納めさせるよう請い、認められた。王が不都合を奏すると帝はまたそれに従った。梁材が去ったのち、侍郎の唐胄らが最初の詔を守ろうとしたので、帝は激怒し、梁材をも責めて右侍郎のまま閑住させ、唐胄の俸を奪い、郎官を詔獄に下した。

再起と最期

  • 翌年、戸部尚書の李廷相が罷免されると、帝は梁材の廉潔と勤勉を思い、大臣にも推薦する者が多かったので、召して旧官に復し、太子少保を加えた。国家財政を掌ること三度、節を守り公正を保つこと終始一日のごとくであった。
  • その秋の京官の考課では特に監督を命ぜられ、また判決の出ない大きな獄があったときは刑部の事務も兼掌させた。帝は嘆じて「梁材のような尚書を十二人得られれば、私は天下を憂えずに済む」と言った。
  • 大工事が相次ぎ、外衛の班軍四万六千人を役していた。郭勛は出頭しない者の名を控えて銀を納めさせ雇役に充てさせ、その扶持米を班軍並みに支給しようとした。李廷相はかつて加減して支給していたが、梁材は断固として与えなかった。郭勛が弾劾すると、帝は補給を命じた。
  • 郭勛はまた兵が足りないとして、逃亡した軍の布・綿を餉銀に換えて工人を募ろうとした。梁材は「いま京の班軍は四万余で既に足りている。それを口実に国の蓄えを費やすべきではない」と述べ、帝はその奏に従った。郭勛はいっそう怒り、梁材が旧来の規則を乱していると弾劾した。
  • これより前、醮壇に龍涎香が必要だったのに梁材が時に応じて進めなかったので、帝は恨みを含んでいた。そこで梁材が名声を求めて事を誤ったと責め、官を落として閑住させた。帰ってまもなく没した。七十一歳。隆慶のはじめ太子太保を贈られ、諡は端肅である。
  • 嘉靖の中ごろ、大臣には上に迎合して寵を得ようとする者もあったが、梁材だけは屈しなかった。それゆえ最後まで容れられなかった。
  • 梁材が去ってから辺境の蓄えと国用は大いに窮迫し、世宗は嘆じて「梁材がいればここまでにはならなかったろう」と言った。