出自と地方での軍功
- 秦金は字を國聲といい、無錫の人である。𢎞治六年(1493年)の進士で、戸部主事に任ぜられ、郎中を歴任した。
- 正徳のはじめ河南提學副使に遷り、右參政に改まって開封を守り、陳橋で趙鐩を破った。山東の左布政使・右布政使を歴任し、賊に蹂躙されたあとを受けて、巡撫の趙璜とともに傷ついた民を撫育し、ようやく立ち直らせた。
- 九年、右副都御史に抜擢されて湖廣を巡撫し、諸王府が占拠していた山林・湖沼をみな上奏して官に返させた。
- 帰順していた盗賊の賀璋・羅大洪が再び叛いたのを討ち平らげた。彬州・桂陽の猺族の龔福全が王を称すると、秦金は前後して砦八十余を破り、首級二千を斬り、龔福全とその党の劉福興らを捕らえた。功を録して俸を一級増し、錦衣世襲百戸の廕を与えられたが、力辞して免れた。
戸部での抑制
- 入って戸部右侍郎となった。世宗が即位すると吏部に移されたが、言官が秦金には人物鑑識の力がないと論じたので、また戸部に戻され、左侍郎に転じて部の事務を統べた。
- 外戚の邵喜が荘田を願い出たとき、秦金は祖法を述べて取り調べを請うた。帝は邵喜を許したが、都察院に制度どおり禁止させた。
- 中旨で各宮になお皇荘を置き、官と校尉を遣わして分けて監督させようとしたとき、秦金は「西漢の盛時には苑囿を貧民に分け与えた。いまどうして民から剝いで上に益そうとするのか」と述べ、正徳年間の額外の侵占を調べてすべて元の持ち主に返し、荘園の管理者をすべて撤するよう請うた。帝は善しとしてただちにその議に従った。
「初めのごとくならず」の上疏
- 嘉靖二年、南京禮部尚書に抜擢され、諸臣を率いて上疏した。その要旨は次のとおりである。
- 陛下は帝統を継がれて以来、徳を明らかにし非を塞ぎ、精励して治を図り、行いに過ちがない。それなら天の和を招くはずなのに、災異が頻りに告げられるのはなぜか。詩に「初め有らざるはなく、克く終わり有るは鮮し」とある。陛下の即位の詔一つで諸制度はみな正しくなり、天下は目を拭って至治を待望した。ところが近ごろは詔に背くことが多く、官司は遵守せず、万民は仰ぐところを失っている。これが詔令が初めのごとくならぬということである。
- 即位のはじめは凡庸な者を退けて老練の士を任じたのに、近ごろは内閣の草案がそのつど途中で改められ、上疏に対しても穏やかな言葉を返すだけである。これが賢を任ずることの初めのごとくならぬことである。
- 即位のはじめは言を聴くこと流れるがごとく、朝に請えば暮れに返答があった。近ごろは外戚・宦官に関わることになると、九卿が執奏し科道が連名で上章しても、みな「すでに旨が出ている」と言われる。これが聴納の初めのごとくならぬことである。
- 即位のはじめは先朝の傳陞・乞陞などの官を一切整理したのに、近ごろは恩沢が濫に過ぎ、封拝が頻繁である。これが名器を慎むことの初めのごとくならぬことである。
- 即位のはじめは奸党・巨悪をみな三法司に付したのに、近ごろはすぐに鎮撫に下す。これが国法を謹むことの初めのごとくならぬことである。
- 即位のはじめはまず戸部に馬房の糧秣を半減させ、科道官に馬の数を調べさせたのに、太監の閻洪らの言によって前の詔を取り下げた。これが民の苦しみを恤むことの初めのごとくならぬことである。
- 即位のはじめは法王・佛子・國師・禪師を追い払ったのに、近ごろは禁地で齋醮を設けている。これが正道を尊ぶことの初めのごとくならぬことである。
- 即位のはじめは精気が満ちておられたのに、近ごろは御身がすぐれず、顔色も戻らない。これが精神を惜しむことの初めのごとくならぬことである。
- そもそも初政が清明だったのは、政が公の朝廷から出て側近が関与しなかったからである。いま政が乱れているのは、政が側近にあって外廷が知らされないからである。政は一日たりとも朝廷を離れてはならず、権は一日たりとも側近に移してはならない。政が朝廷にあるとは、すべてを独りで運ぶという意味ではなく、手足となる者に託し、耳目となる者に委ねることである。そうすれば主上の威は九鼎より重く、国勢は泰山より安らかになる。古来の帝王が天下を制御したのはこの術によるだけである。そうでなければ、宮中と朝廷が隔てられて信任が偏り、婦人と宦官の情に親しんで見聞が塞がれる。総攬と称しながら、実は太阿の剣の柄が下に移っているのである。
- 上章は禮部に下され、尚書の汪俊が帝に採用を強く勧めたが、聞き置かれただけであった。
大禮の争いと戸部尚書としての抑制
- ほどなく南京兵部に移った。孫交が去ると召されて戸部尚書となった。
- 帝が興獻帝を「考」と称そうとしたとき、秦金は廷臣とともに闕下に伏して争った。また何孟春らとともに張璁の建議の非を条列した。聖母の冊立の際にも、秦金と趙璜らは出席しなかったので、帝はしきりに詰責した。
- 秦金は人柄が温和で親しみやすく、官にあっては一貫して廉正を保った。戸部ではとりわけ国のために心を尽くした。
- 永福長公主が寳坻・武清の土地を願い出たときは、秦金の言によってかなり減らされた。
- 撫寧・山海の荘園の地は魏國公徐達に賜ったものだったが、徐達の死後は官に戻されていた。定國公徐光祚がこれを願い出たとき、秦金は不可として譲らなかった。給事中の黄重、御史の張珩らが前後して争い、秦金らも重ねて言上して、ようやく許された。
- 内府の諸監局の軍匠は数千人に達していた。中官の梁諌が金・玉・珠・石を部に採らせるよう請うたが、秦金はいずれも執奏した。聞き入れられなかった。
- 奸人の逯俊らが両淮の塩引三十万を願い出て帝が許したときも、秦金は不可として力争した。こうして次第に帝の意に背いた。
- 六年春、考課の自己申告により致仕した。駅伝・人夫・扶持米は制度どおりであった。
再起と最期
- 帰って五年、推薦が絶えなかったので、南京戸部に起用され、民を利する六事を上疏した。
- まもなく召されて工部尚書となり、太子少保を加えられた。帝が張孚敬・李時と諸大臣を評したとき、秦金を賢としながらも、その老齢をかなり気にかけた。数か月ののち太子太保を加えて南京兵部に移し、一年余りで致仕して帰郷した。
- 二十三年に没した。七十八歳。少保を贈られ、諡は端敏である。
秦柱
- 孫の柱は諸生から中書舍人に任ぜられた。
- 大學士の髙拱が罪を得てあわただしく京師を去ったとき、門生はみな身を隠したが、柱ひとりが百里の外まで送った。
- 吳中行が張居正の奪情を論じて杖に処され詔獄に下されたとき、柱は医者を連れて薬を看たので、張居正の怒りを買い、魯府審理に遷され、まもなく考課にかこつけて罷免された。