明史卷一百九十四 列傳第八十二 趙璜

出自と濟南知府

  • 趙璜は字を廷實といい、安福の人である。幼いころ父の任地へ向かう途中で長江に落ちたが死ななかった。少し長じて道で落とし主の金を拾い、すべて返した。
  • 𢎞治三年(1490年)に進士となり、工部主事に任ぜられ、兵部に移って員外郎を歴任した。
  • 濟南知府として出た。狡猾な胥吏が文書を操って長年の害をなしていたので、趙璜は実直な民を選んで律令を教え、通暁した二十余人を得て、胥吏を追い出して代えた。
  • 漢庶人の牧場は長く官に籍されていたので民を募って耕作させていたが、德王府が願い出た。趙璜は調べて民に返した。
  • 七年を経て政績は大いに顕れた。

巡撫から工部尚書へ

  • 正徳のはじめ順天府丞に抜擢されたが着任前に、劉瑾が趙璜を憎み、巡撫の朱欽の事件に連座させて詔獄に下し、除名した。劉瑾が誅されると復職した。
  • 右僉都御史に遷って宣府を巡撫し、まもなく山東に移った。河原の地数百里を流民に与えて開墾させ、その租を免除した。番僧がこれを徴収して齋糧に充てたいと請い、帝が許したが、趙璜が力争して免れさせた。
  • 曲阜が賊に破られ、闕里の孔林・孔廟が野中に取り残されたので、趙璜は県城を闕里に移すよう請い、容れられた。
  • 工部右侍郎に抜擢されて河道を総理した。辺境の警報のため畿輔の軍備の管理に移り、事が定まると順天など諸府の飢饉の振給を命ぜられた。還って部の事務を助けた。
  • 世宗が即位すると左侍郎に進んで部の事務を統べた。宦官の賜葬費および御用監の材料代を削り、内府の酒醋麵局が年ごとに徴収していた鉄・甎の代銀を廃した。年に巨万に及ぶ額であった。

嘉靖初年の工部尚書

  • 嘉靖元年、尚書に進んだ。
  • 劉瑾が造った元明宮は数十万の財を費やしたもので、劉瑾の死後、奸人が献じて皇荘とされていたが、帝は即位すると退けて民に与えた。ところがのちに中旨で旧に復せと命じた。趙璜は「詔が下って数か月で急に変えては、天下に不信を示すことになる」と述べ、帝はただちに許した。
  • ちょうど仁壽宮・清寧宮の修築の費用が続かなくなったので、趙璜は石景山の諸建物とあわせて売却して費用に充てれば民を煩わせずに済むと請い、帝は認めた。
  • 給事中の徐景嵩らは、詔書で民に返すと許したのに官が自ら売るのは不当だとして趙璜を弾劾した。趙璜は上疏して弁明し、あわせて景暠の他の事件を暴いた。御史の張鵬翰が「趙璜は言官の落ち度をあげつらい大臣の節義がない」と述べると、帝は張鵬翰が徐景嵩をかばい党しているとして責め、ついに退けた。その同僚の陳江も趙璜を弾劾して責められ、辞職を願った。給事中の章僑が「趙璜は一挙に二人の諫官を追い出した。国体を大きく損なう」と述べ、尚書の彭澤が章僑の非を奏し、章僑がさらに弁じたので、帝は双方を取りなした。
  • 皇后の父・陳萬言の邸宅造営の詔が出て、工費が六十万と見積もられたので、趙璜は押しとどめた。陳萬言が帝に訴え、郎中と員外郎の二人が詔獄に下された。趙璜は「二人は関わりがありません。臣を罪してください」と述べたが、帝は聞かなかった。その後、救おうとする言が相次ぎ、陳萬言も落ち着かなくなって二人の赦免を重ねて請うたので、二人は釈放され、工費も大いに減らされた。
  • 三年、顯陵の司香の内官が陵の規模が狭小だとして天壽山の諸陵並みに改築するよう請うたが、趙璜は「陵の規模は山水と釣り合うもので、一様には論じがたい」と述べ、帝はその言を容れた。
  • のちに帝が顯陵を遷そうとしたときも、趙璜が反対して沙汰やみとなった。
  • 玉徳殿と景福・安喜の二宮を建てよとの詔が出たとき、趙璜は仁壽宮の完成を待ってゆっくり議すよう請うたが、帝は許さなかった。ほどなく災異に託して前の請いを重ねると、帝はようやく従い、あわせて仁壽宮の工事も罷めた。
  • 江西の真人府造営、陝西の織造監督にいずれも中使が遣わされたが、趙璜はどちらも上疏して争った。
  • 世廟の造営で中官が割り当てた資材を戸部が多く削減したとき、帝が趙璜に問うと、趙璜は「先に乾清・坤寧の両宮を造ったときの余剰の資材で足ります」と答え、帝はそのとおりにさせた。

致仕と人となり

  • 趙璜が尚書であった六年は、帝が初政に意欲を燃やして弊害の除去に努めていた時期で、中官も妨げようとしなかったので、職務を全うできた。のちに持論を曲げず論じ続けたため、権勢者・寵臣に憎まれる者が多く、帝の意も疎遠になった。
  • 趙璜はかねて秦金と名声を並べており、考課の自己申告で秦金とともに致仕した。廷臣が留任を請うたが許されず、駅伝・人夫・扶持米は故事どおりであった。
  • 趙璜は事務の才があり思慮に富み、事がもつれて他人が顔を見合わせて呆然とするような場面でも、たちどころに裁いた。
  • 去ったのちは争って推薦する者があり、十一年、召されて旧官に復されたが、着任せずに没した。太子太保を贈られ、諡は莊靖である。