明史卷一百九十四 列傳第八十二 孫交

出自と𢎞治年間の実績

  • 孫交は字を志同といい、安陸の人である。成化十七年(1481年)の進士で、南京兵部主事に任ぜられ、尚書の王恕に認められた。
  • 𢎞治のはじめ、王恕が吏部に入ると推薦されて稽勲員外郎に任ぜられ、文選郎中を歴任した。吏部に居ること十四年、善良の士を多く引き立てた。
  • 太嘗少卿に遷り、四夷館を提督した。
  • 大同に警報があると、黄花鎮など諸辺の経略を命ぜられ、土塁と塹壕を増設し、樹木を広く植えて、敵の騎兵が駆け込むのを防いだ。
  • 永樂のころ毎年隆慶などの諸衛の軍を遣わして薪炭を採らせていたが、のちにこれを罷めて代わりに年ごとに銀二万両を納めさせたため、軍は大いに苦しんでいた。孫交は上奏してこれを免除させた。
  • 正徳のはじめ光䘵卿に抜擢され、三年に戸部右侍郎に進んで倉場を提督し、吏部に移った。尚書の張綵が劉瑾に取り入っていたので孫交はしばしば諫めたが、張綵は怒って南京に移した。劉瑾が誅されると召されて戸部尚書に任ぜられた。

正徳末の戸部尚書

  • 当時は流賊の征討で調達が急を要し、しかも凶作続きで正税が足りなかった。孫交は適切に処理し、諸方から飢饉の訴えがあればそのたびに租税の免除と振給を請うたので、民はひどく疲弊せずに済んだ。だが小人で権を握る者たちにはみな都合が悪かった。
  • 帝が太平倉を寵臣の裴徳に与えようとし、雲南鎮守中官の張倫が銀鉱の採掘を請い、南京織造中官の吳經が経費不足を奏したとき、孫交はいずれも力争した。
  • 八年五月、中旨によって禮部尚書の傅珪とともに致仕させられた。言官の多くが留任を請うたが返答はなかった。

世宗の下での戸部尚書

  • 世宗は潜邸にあったころから孫交の名を知っていたので、即位するとすぐに召して旧官に復した。孫交はまず「祖訓を読み、一挙一動をそれに準拠されよ。經筵と日講は寒暑を問わず絶やされるな」と請い、帝は褒めて容れた。
  • 顯陵を天壽山に遷そうという議が出たとき、孫交は「山陵の事は重大である。太祖が仁祖を鍾山に遷そうとして霊気が漏れるのを慮ってやめられたことは、皇陵碑に詳しく載っている」と述べ、議は取りやめになった。
  • 武宗の奢侈のあとで庫蔵は尽きていた。孫交は無用の食禄を削り、経常の制度を定め、積年の弊は一掃された。ただし中官に関わる事案は帝も従いきれなかった。
  • かつて廷臣が内帑を出して軍糧・官俸に充てることを議し、裁可も出たが、中官の梁諫らに阻まれた。孫交は「宮中と朝廷が食い違い、令が出てまた覆るのは新政にふさわしくない」と述べたが、容れられなかった。
  • 倉場を監督する中官は当初わずか数人だったのが正徳中に五十五人まで増えていた。孫交の言によって半数以上が撤された。その後また徐々に増えたが、帝はすでに三十七人を罷めており、孫交はすべて廃し、臨清・徐州・淮安の諸倉にも一切遣わさぬよう求めた。帝は今後は増やさないと命じたにとどまった。
  • 珠池を守る中官には守土の事に関与するなとの詔があったが、安川が縁故を頼って旧に復した。孫交が安川を弾劾し、前の詔のとおりにせよと命が下った。
  • 正徳中、上林苑の内臣は九十九人に達し、公私の土地を侵奪すること数知れなかった。帝は即位のとき𢎞治のころに倣って十八人を残せと命じたが、伝奉によってすでに六十二人に戻っていた。孫交は当初のとおり削減し、侵奪した土地をすべて返させるよう請い、許された。
  • また御馬監の内臣は祖法どおり秣や豆の徴収を監督させず、戸部に馬の頭数を通知させて着服・浪費を防ぐべきだと論じたが、容れられなかった。
  • 錦衣百戸の張瑾が校尉を率いて通州倉で俸を受け取る際、横領がひどかった。主事の羅洪載が取り調べようとすると、張瑾は偽って杖罰を受けたいと申し出たうえで、羅洪載が勝手に禁衛の官を笞打ったと奏した。帝は怒って羅洪載を詔獄に下し、地方へ左遷した。孫交は林俊・喬宇とともに前後して救おうとしたが、容れられなかった。
  • 御馬監の閻洪が豹房の外の土地を願い出たとき、孫交は「先帝は豹房のゆえに際限のない禍を残された。閻洪らはそれを修復して遊猟の端を開こうとしている。臣らの聞くに堪えぬところである」と述べた。詔により十頃を豹房に給し、残りは百戸の趙愷らに従来どおり小作させた。
  • 詔を奉じて各宮の荘田の数を調べたところ旧籍と合わなかった。帝がその理由を問うと、孫交は「旧籍が多いのは奏請や投獻によって数を偽って報じたものが多いから、新籍が少ないのは命を奉じて実地に調べ、除外した田が多いからです」と答えた。帝の疑いはやや解け、成化・𢎞治年間の籍を調べて報告せよと命じた。

致仕と人となり

  • 孫交はすでに七十歳になっており、続けて上章して辞職を願った。帝はそのつど慰留し、医者を遣わして治療させたが、いよいよ強く請うたので許した。手詔で太子太保を加え、駅伝の利用を許し、子で編修の元に付き添わせ、役所に折々見舞わせて食米と輿丁を給し、さらに路銀を賜った。八十歳で没し、諡は榮僖である。
  • 孫交の言論は慎み深く、権勢や地位で人に驕ることがなかった。清廉・謹直・恬淡で、生涯変わらなかった。
  • はじめ南京にいたとき、同僚たちは職務が閑散なのを幸いに、談笑・酒宴・囲碁を楽しんでいた。孫交はひとり部屋にこもって読書を絶やさなかった。人がそれを口にすると、孫交は「聖賢の言葉に向き合うほうが、賓客や妻妾に向き合うよりよかろう」と言った。
  • 興獻王はもとより孫交を愛重し、かつて陽春臺の東側の地を割いてその邸宅に加えた。のちに中官が「孫尚書が土地を侵している」と言うと、世宗は「これは先皇の賜ったものだ。私が奪えようか」と言った。
  • 子の元は進士で、四川副使を最後の官とした。謹厚で父の風格があった。