明史卷一百九十四 列傳第八十二 林俊
林俊(字は待用、七十六歳で没)は莆田の人。成化十四年の進士。刑部員外郎のとき妖僧繼曉の処刑と中貴梁芳の処罰を請うて詔獄・拷問に遭い、救おうとした張黻ともども左遷されたが、その直言は都下を震わせた。雲南副使として鶴慶元化寺の「活仏」を焼き淫祠三百六十区を毀ち、湖廣按察使、江西巡撫として寧王宸濠の奢侈を抑えた。正徳四年に四川を巡撫し、藍廷瑞・鄢本恕・廖惠・曹甫らの乱を輿一つで賊営に乗り込む胆力と土兵の運用で平定して右都御史に進んだが、総督洪鍾や御史俞緇と軋轢を生じ、正徳六年十一月に致仕した。世宗の即位で七十歳にして刑部尚書となり、中官の犯法を法司で裁くべきことを譲らず、大禮の議では楊廷和と歩調を合わせ、廷杖が士大夫を打ち殺す刑と化したことを病床から諫めた。没後『明倫大典』の成るに及び官を削られ、隆慶初に復官、少保を贈られて貞肅と諡された。
年表(10件)
- 成化十四年1478年進士に及第し刑部主事に任ぜられる
- 𢎞治元年推薦により雲南副使に抜擢される
- 𢎞治五年湖廣に移り、雨雪の災異に託して時政の得失を上疏する
- 𢎞治九年病と称し、返答を待たずそのまま帰郷する
- 𢎞治十四年正月朔の陝西・山西の地震により齋醮の停止など十余事を請う
- 正徳四年起用されて四川を巡撫する
- 正徳六年十一月1511年致仕を許されて帰り、士民が号泣して見送る
- 嘉靖四年秋、病床から上書して廷杖と打問の濫用を諫める
- 成化八年張黻が進士に及第し、涪州・宿州の知州を歴任する
- 正徳九年子の林達が進士に及第する
出自と成化年間の直諫
- 林俊は字を待用といい、莆田の人である。成化十四年(1478年)の進士で、刑部主事に任ぜられ、員外郎に進んだ。
- 剛直で世に迎合せず、権貴に関わる事件は尚書の林聰がいつも林俊に処理させた。
- 上疏して妖僧の繼曉を斬り、あわせて中貴の梁芳を罪すよう請うた。帝は激怒して詔獄に下し拷問した。後府經歴の張黻がこれを救おうとして、ともに獄に下された。太監の懐恩が力を尽くして救ったので、林俊は姚州判官、張黻は師宗知州への左遷で済んだ。
- 当時は言路がふさがれて久しかったので、二人の直言の名声は都下を震わせ、「御史は刑曹に在り、黄門は後府より出づ」という言葉ができた。
- まもなく正月朔に星の変異があり、帝は思い当たるところがあって林俊の官を復し、南京に移した。
雲南・湖廣の地方官として
- 𢎞治元年、推薦により雲南副使に抜擢された。
- 鶴慶の元化寺に活仏がいると称し、年ごとに男女一万人が集まって争ってその面に金を塗っていた。林俊はこれを焼かせ、得られた金はすべて民の未納分の弁済に充てた。
- また淫祠三百六十区を壊し、その材はみな学宮の修築に回した。
- 干崖の土舍・刀怕愈が甥の宣撫官の職を奪おうとしてその印を数年間奪っていたが、林俊が檄を発して責めたので印は返された。按察使に進んだ。
- 五年、湖廣に移り、雨雪の災異に託して時政の得失を上疏した。
- また徳安・安陸での王府造営および吉府の増修は工役が過大で費用も巨万に及び、民が堪えられないと述べ、寧府・襄府・徳府の先例に倣ってすべて倹約し、琉璃瓦や白石の彫欄を用いず、これを恒例として定めるよう請うたが、従われなかった。
- 九年、病と称して返答を待たずそのまま帰郷した。久しくして推薦により広東右布政使に起用されたが受けなかった。南京右僉都御史として操江を督することになった。
正徳初年の上疏と江西巡撫
- 十四年正月朔、陝西・山西で地震が起こり水が湧いた。林俊は上疏して、古来の宮闈・外戚・内侍・柄臣の禍を述べ、齋醮を罷め、織造を減らし、役占を整理し、冗員を削り、工作を止め、供応を省き、賞賜を節し、逸楽の欲を戒め、佞幸を遠ざけ、賢人に親しむよう請うた。
- さらに皇儲の早期教育を請い、侍郎の謝鐸、少卿の儲瓘・楊㢘、致仕副使の曹時中、處士の劉閔が輔導に堪えると推薦した。上奏は聞き置かれた。
- 続けて上疏して辞職を願い、曹時中を後任に推したが、許されなかった。
- 江西新昌の民・王武が盗賊となり、巡撫の韓邦問が鎮められなかったので、林俊に巡視を命じた。林俊は自ら王武の巣窟に入り、王武は自ら働きたいと申し出て、賊党をことごとく捕らえた。詔によりそのまま林俊が韓邦問に代わった。林俊は朱熹が唐仲友に代わり、包拯が宋祁に代わった故事を引いて固辞したが、許されなかった。
- そこで規約を改め定め、諸般の政務は一新した。
- 王府の年禄の徴収はおおむね民から倍に取り立てていたが、林俊の言によって大いに削減された。
- 寧王宸濠は貪欲で暴虐だったので、林俊はしばしばこれを抑えた。王が琉璃瓦への葺き替えを請い費用二万を要したときも、林俊は従来どおりにすべきだと述べ、叔段が京の外辺を求めた故事や、呉王が几杖を賜った故事のようになってはならぬと諫めた。王は怒って落ち度を探ったが見つからなかった。折しも林俊が聖節の巡視をしたのを機に弾劾し、俸給三か月の停止となった。
- まもなく母の喪で帰郷した。武宗が即位すると言官が相次いで推薦し、朝廷にいる江西出身者が連名で林俊を戻すよう請うたので、右副都御史に進んで再び江西を巡撫した。父の喪に遭って赴任は実現しなかった。
四川の賊徒討伐
- 正徳四年、起用されて四川を巡撫した。
- 眉州の人・劉烈が乱を起こして敗走したが、無頼の徒がその名を騙って略奪したので、林俊は人相書を作って捕らえようとしたが捕まえられなかった。
- そこへ保寧の賊・藍廷瑞、鄢本恕、廖恵らが相次いで起こり、勢いはいよいよ盛んになって、巴州へ流れ込んだ。林俊は華壟で不意に賊と遭遇したが、輿一つで賊の陣営に乗り込み、利害を説き諭した。賊は取り囲んで拝礼し、降伏を約束した。ところが長雨で期日を過ぎ、賊は再び叛いて通江を攻め落とした。
- 林俊は龍灘河でこれを撃破し、知府の張敏らを遣わして門鎮子で追撃・撃破させ、廖惠を捕らえた。藍廷瑞は陝西の西鄉に逃げ、漢中の三十六盤を越えて大巴山に至ったが、官軍が追いついて再び大破した。
- そこで軍を移して瀘州の賊・曹甫を攻め、同時に人を遣わして帰順を勧めた。曹甫は聞き入れるふりをしながら、弟の琯に従来どおり略奪させた。指揮の李䕃が琯の首を斬った。
- 賊は江津に移り、七つの営に分かれて重慶を攻めようとした。林俊は酉陽・播州の土兵を出して李蔭を助け、元日に不意を突いてその四営を破った。賊は民家に逃げ込んだので、これを焼いてことごとく殺した。
- 勢いに乗って本営を突いたが、指揮の汪洋らが伏兵にかかって戦死した。李䕃はさらに進み、賊まで十五里に迫った。曹甫が数十騎で出て李蔭の兵に遭い、敗走した。官軍は乗じて進み包囲し、捕虜と焼死した者は二千余に及んだ。
- その後、鄢本恕と藍廷瑞は永順の土舍・彭世麟に捕らえられた。林俊は功を論じて右都御史に進んだ。
- 曹甫の党である方四が恩南に逃亡し、再び南川・綦江を攻めて瀘州をうかがった。林俊はさらに土兵を出し、副使の何珊・李鉞らにこれを撃退させた。捷報の合間に璽書で奨励された。
軍中での軋轢と致仕
- 林俊は軍中で総督の洪鍾としばしば意見が食い違った。中官の子弟が従軍の功を偽ろうとするのをそのつど禁じた。
- 御史の俞緇が賊を避けて逃げ、僉事の吳景が戦死した。俞緇は恥じて罪を林俊に転嫁しようとし、林俊は再三首功を報告しながら賊は結局滅びない、しかも井戸を掘り寺を壊して僧徒を追い出し、彼らを賊に追いやったと弾劾した。こうして林俊は前後にわたって厳しく責められた。
- 方四が敗れて賊がほぼ尽きたころ、林俊は加秩と賞を辞退し、もとの官のまま帰田したいと願った。詔は加秩の辞退を許さず、致仕だけを許した。言官が相次いで留任を請うたが返答はなかった。林俊が帰るとき、士民は号泣して見送った。正徳六年十一月(1511年)のことである。
世宗即位後の刑部尚書
- 世宗が即位すると工部尚書に起用され、刑部に移された。赴任の途上でたびたび病を理由に辞退したが許されなかった。そこで、帝が儒臣を近づけてその心を正したうえで号令を発し、質朴を旨として天下に率先されるよう、また即位の詔で廃止したものについては妥協して公議を廃することのないよう請うた。
- 京師に着いたころ、暑さのため經筵の講義が中断していたので、祖宗が学問に励んだ故事を挙げて諫めた。林俊はこのとき既に七十歳で、朝房に仮住まいして長居する気のないことを示した。
- しばしば帝に、大臣に親しみ、聖学に励み、異端を弁じ、財用を節することを説いた。朝廷に大きな政事があれば必ず堂々と論じ、内外はその風采を仰いだ。
- 中官の葛景らの不正利得が発覚し言官に糾弾されたとき、詔で司禮監に取り調べさせようとした。林俊は「内臣が法を犯したのに法司が取り調べられないのでは、宮中と朝廷が別の体ということになる。法司に下して公明に調べさせ、公平な政治を示されたい」と述べた。
- 都督の劉暉が獄に下されたとき、林俊は交結朋党の律を当てるべきだとし、許泰と同罪であるから斬って天下に謝すべきだと述べた。
- 廖鵬・廖鎧・齊佐・王瓛が死罪と決まったのに、たびたび刑の猶予を命ずる詔が出たので、林俊は速やかに誅を行うよう請うた。また谷大用が民田一万余頃を占有していると弾劾したが、いずれも容れられなかった。
- 中官の崔文の家人・李陽鳳が匠師の宋鈺に賄賂を求めて得られず、崔文をそそのかして杖打たせ、宋鈺は死にかけた。事件は刑部に下されて処理中だったが、判決の前に中旨で鎮撫司へ移された。林俊は引き止めて送らず、力争したが容れられなかった。翌日また上奏すると、帝は怒って事情を陳述せよと責めた。
- 林俊は言った。祖宗は刑獄を法司に付し、奸盗の捕縛を鎮撫に付された。鎮撫が取り調べて自白を得ても、なお必ず法司に付して罪を擬した。まだ判決の出ていない囚人を奪い取って逆に鎮撫に取り調べさせた例はない。崔文は先朝で摘発を免れた奸物で罪は誅するに余りあるのに、いままた内降を求めている。臣は朝廷百五十年の紀綱がこの輩によって壊されるのを見るに忍びない、と。帝はその言の直きを憚って不問に付した。
- 林俊は高徳の老臣として在野から起用され、正論を守って嫌疑を避けなかったが、たびたび退けられたので致仕を願った。詔で太子太保を加え、駅伝・従者・扶持米は制度どおり給された。
大禮の議と廷杖への諫言、最期
- 林俊はしばしば大禮を争い、楊廷和と歩調を合わせた。かつて上言して、生みの親を尊崇するには抑えがたい情がある一方、変えてはならない礼がある、と述べ、堯舜から宋の理宗に至る事例十箇条を編んで奉った。
- 大禮の議が決まって罪を得た者に杖死する者も出たので、四年秋、林俊は病床から上書した。古の鞭撲の刑は辱めるだけのもので、体を打ち砕いて死に至らしめるためのものではなく、まして士大夫に加えるものではない。成化のころ、臣は廷杖を二、三度見たが、いずれも厚い綿の下着に厚い氈を重ねて包むのを許されており、それでも長く床に伏してようやく癒えた。正徳の朝で逆臣劉瑾が権を握ってから衣を脱がせるようになり、末年には杖死する者が多くなった。また成化・𢎞治のころは叛逆・妖言・劫盗で詔獄に下された者に限って打問を命じ、他の罪は「送問」と言うだけであった。今は一律に打問するが、これも故事ではない。昨年来、旧臣は追い出されてほぼ尽き、朝廷の官署は空になっている。去った者は礼をもって遇し、まだ去らぬ者は慰留され、羅欽順・王守仁・吕柟・魯鐸のような徳望のある者を側近に置かれたい。臣は衰病で余命もなく他に望みはないが、あえて古人の遺表の意に倣って犬馬の心を申し述べる、と。帝は担当官に下しただけであった。
- 翌年、病が篤くなると再び上書し、学に励み、孝を厚くし、賢を任じ、諫を納れ、身を保ち、和を導くよう請い、あわせて死後の恤典を辞退した。そして没した。七十六歳であった。
- 一年後に『明倫大典』が成り、林俊は楊廷和に同調したとして追及され、官を削られた。子の達は士の礼をもって葬った。
- 林俊は四朝に仕え、堂々と諫言し、礼に従って進退し、終始一貫していた。隆慶のはじめ官を復され、少保を贈られ、諡は貞肅である。
林達・張黻
- 達は正徳九年の進士で、南京吏部郎中に至った。篆書・籀文を能くし、古文に長じていた。
- 張黻は吉水の人で、成化八年の進士。涪州・宿州の知州を歴任した。硬骨で権貴を避けなかった。𢎞治のうちに林俊は栄達したが、張黻は老いて用いられなかった。王恕がそのために請い、特別に誥命を与えられた。