明史卷一百九十三 列傳第八十一 趙貞吉
趙貞吉(字は孟靜、?–1582年)は内江の人。六歳で日に書一巻を誦し、王守仁の学を最も善くした。嘉靖十四年の進士。諳達が都城に迫った際の廷議で沈黙する百官のなか一人大言して咎を引く詔・辺帥の激励・言路の開放を献策し、左諭徳兼監察御史に抜擢されて諸軍に宣諭したが、嚴嵩の妨害で一卒も付けられず、復命後は詔獄・廷杖のうえ荔波典史に謫された。のち戸部右侍郎まで復したがまた嚴嵩に官を奪われ、隆慶初に起用されて穆宗の日講官を務め、隆慶三年秋に入閣した。禁軍を五営に分ける営制改革を提起し、諳達の封貢を賛けたが、都察院を掌って髙拱の科道考察の私を抑えたため衝突し、韓楫の弾劾を受けて去った。萬厯十年に卒し、少保を贈られ文肅と諡された。
年表(8件)
- 嘉靖十四年1535年進士に及第し、庶吉士から編修を授かる
- 嘉靖四十年1561年戸部右侍郎に遷るが、餉督の廷推をめぐり官を奪われる
- 隆慶初1567年禮部左侍郎に起こされて詹事府を掌り、日講官を命じられる
- 隆慶三年1569年秋、文淵閣大學士を兼ねて機務に参預する
- 萬厯十年1582年卒して少保を贈られ、文肅と諡される
- 嘉靖二十六年1547年附伝の殷士儋が進士に及第し、のち裕王の講官となる
- 隆慶元年1567年殷士儋が侍讀學士に抜擢され翰林院の事を掌る
- 隆慶四年1570年正月の日食・月食により殷士儋が布徳緩刑など五事を請う
出自と諳達来寇への献策
- 趙貞吉は字を孟靜といい、内江の人。六歳で日に書一巻を誦し、長ずるに及んで博洽をもって名があり、最も王守仁の学を善くした。
- 嘉靖十四年(1535年)の進士に及第し、庶吉士に選ばれて編修を授かった。当時、方士が初めて進み用いられていたので、貞吉は貞正な儒者を求めて大業を賛けさせるよう請うた。執政は喜ばず、そこで急を請うて帰った。
- 還朝して中允に遷り、司業の事を掌った。
- 諳達が都城に迫り、書を寄こして貢を求めた。百官に廷議させる詔が下ると、貞吉は袖を奮って大言した。城下の盟は春秋がこれを恥とする。すでに許して責めれば必ず城に入って来る。もし要索が已まなければどうするのか、と。徐階が「君には必ず良策があろう」と言うと、貞吉は言った。今の計としては、至尊が速やかに正殿に御し、詔を下して咎を引き、周尚文の功を録して辺帥を励まし、沈束を獄から出して言路を開き、軍を損なった罪の令を軽くし、功を賞する格を重くし、官を遣わして諸将に宣諭し監督して力戦させれば、敵を退けるのはたやすいことです、と。
- 当時、帝は中使を遣わして廷臣を□させていたが、日中まで一語も発する者がなかった。貞吉の言を聞いて心中これを壮とし、嚴嵩に「貞吉の言は是である。ただ周尚文・沈束の事に及ぶべきでなかった」と諭した。左順門に召し入れて手ずから便宜を疏させ、ただちに左諭徳兼監察御史に抜擢し、勅を奉じて諸軍に宣諭させ、白金五万両を給して宜しきに随って労い賞するに任せた。
- 初め、貞吉は廷議が終わると盛んな気で嚴嵩に謁したが、嚴嵩は辞して会わなかった。貞吉は怒って門番を叱った。折しも趙文華が至ったので、貞吉はこれも叱った。嚴嵩は大いに恨み、勅を撰するときは戦を督させぬようにしてその権を軽くし、しかも一卒も護行に与えなかった。
- 当時、敵の騎兵は充ち満ちていたが、貞吉は馳せて諸将の営に入り、金を散じて士を犒い、徳意を宣諭して、翌日にはただちに復命した。帝は大いに怒り、貞吉は何の区画もなく、いたずらに周尚文・沈束のために遊説しただけだと言って詔獄に下し、廷で杖して荔波典史に謫した。
嚴嵩との対立と隆慶朝の入閣
- やや遷って徽州通判となり、南京吏部主事に進んだ。嘉靖四十年(1561年)、遷って戸部右侍郎に至った。
- 廷議で大臣を薊州に赴かせて餉を督し兵を練らせることになり、嚴嵩は貞吉を用いようとして召して飲ませ意を示した。貞吉は言った。餉を督するのは京運を督するのか民運を督するのか。もし二運にすでに職掌があるなら、官を添えてもいたずらに擾を増やすだけである。まして兵が練られていないのは、その過ちは当然ここにはない。たとえ十人の戸部侍郎が出たとて、練兵に何の益があろうか、と。嚴嵩は不快になってやめた。
- 折しも嚴嵩が休暇を請い、吏部は倉場侍郎林應亮を用いた。嚴嵩は出てからいよいよ怒り、都給事中張益に林應亮を弾劾させて南京に調し、あらためて僉都御史霍冀を用いた。張益はまた、餉を督するのは戸部の専職であるのに、今、貞吉と左侍郎劉大賓は廷推に及ばなかった。これは不職である、罷めるべきだと言った。そこで二人はともに官を奪われた。
- 隆慶初(1567年)、禮部左侍郎に起こされて詹事府を掌った。穆宗が太學に幸したとき、祭酒胡杰がたまたま論じられて罷められたので、貞吉が事を摂り大禹謨を講じて旨に称い、日講官を務めるよう命じられた。貞吉は年六十を越えていたが、議論は侃直で進退に儀があり、帝は深く意を注いだ。
- まもなく南京禮部尚書に遷ったが、出発してから帝はこれを念い、なお留めて直講させた。
- 隆慶三年(1569年)秋、文淵閣大學士を兼ねて機務に参預するよう命じられた。貞吉は入って謝し、朝綱も辺務も一切が廃弛している。臣は身を捐てて事に任じたい。ただ陛下がこれを主られたい、と奏した。帝はいよいよ喜んだ。
営制の議と髙拱との対立
- 折しも寇が大同に入り、總兵官趙岢が事を失したのに、總督陳其學はかえって捷報を上げ、御史燕如宦に暴かれた。貞吉は重罰に処そうとしたが、兵部尚書霍冀はわずかに貶秩を議した。貞吉は同官と争ったが得られず、そこで上言した。辺帥が律を失したときの祖宗の法は具わっている。今、当事者が法を屈して人に徇っては、公論をどうするのか。臣は老いた。忠を効す術がない。罷免を賜りたい、と。許されなかった。ほどなく太子太保を加えられた。
- 貞吉は、先朝は禁軍を三大営に列ね、営ごとに帥があったのに、今は一人が三営を総べており、権が重くて制しがたいとして、その弊を極言し、五営に分けて各々大将に統べさせ、やや祖宗の旧に復すよう請うた。帝は善しとして兵部に廷臣を会して議させた。
- 尚書霍冀は先に貞吉と議が合わなかったので、その言をかなり然りとしなかった。廷臣もまた、兵を強くするのは将を択ぶことにあって法を変えることにはないと言う者が多かった。霍冀らはそこで、三大営は元の通りとすべきで、ただ一人を総督とするのは権が重すぎるから、三営それぞれに大将一人を議し、総督を罷めて文臣を総理とすべきだと議を上り、可との返答があった。
- 初め給事中楊鎔が霍冀の貪庸を弾劾したとき、帝はすでに霍冀を留めていた。霍冀は楊鎔が貞吉の同郷であることから貞吉の意から出たと疑い、疏で弁じて罷免を乞い、しかも貞吉を詆った。貞吉もまた疏で弁じて去ることを求めた。貞吉を留め霍冀の官を褫う詔が下った。その後、営制はしばしば改められ、一年も越えぬうちに旧に復したが、貞吉も争うことができなかった。
- 諳達が塞に款いて封を求めたときは、貞吉が力めてその議を賛けた。
- これより先、髙拱が再び入閣してそのまま吏部を掌り、貞吉は李春芳に言って都察院を掌ることを得た。髙拱が私憾によって科道を考察しようとしたので、貞吉は同事の者と上言した。このほど御史葉夢熊が事を言って旨に忤らったことにより、陛下は言官を考覈せよと厳しく諭され、あわせて陞任した者や在籍の者にも及んで、考課すべき者は二百人近くになる。その中にどうして忠を懐いて主に報い、謇諤として敢えて言う士がいないことがあろうか。今、一様に放肆奸邪の罪を科せば、所司の奉行が過当となって忠邪が分かたれず、言路を塞ぎ士気を沮み、国家の福ではなくなることを恐れる、と。帝は従わなかった。
- 髙拱は貞吉にその内情を察せられたので恨むこと甚だしかった。考察の際、髙拱は貞吉の厚くする者を去らせようとし、貞吉もまた髙拱の厚くする者を挙げて解こうとした。そこで斥けられた者は二十七人で、髙拱の憎む者もみなこれに与った。髙拱はなおこれを恨み、門生の給事中韓楫を嗾けて、貞吉は庸横で考察のときに私があったと弾劾させた。
- 貞吉は疏で弁じて休を乞い、しかも言った。臣は院務を掌って以来、ただ考察の一事で髙拱と相左しただけである。その他、選法を壊乱し縦肆に奸を作すことが耳目に昭らかであるのに、臣は口を噤んで一言も言えず、任使に負いた。臣こそ真の庸臣である。髙拱のごときは横というべきである。臣が放ち帰されたのちは、なお髙拱を内閣に還し、久しく大権を専らにして広く衆党を樹てさせぬようにされたい、と。疏が入るとついに貞吉の去るのを允し、髙拱は元の通り吏部の権を握った。
- 貞吉は学が博く才が高かったが、剛を好み気を使って動もすれば物と迕った。九列の大臣を名で呼ぶこともあり、人もこれによって怨む者が多かった。髙拱・張居正は名輩が貞吉より後であるのに進用は先であり、いずれも才を負って勝ちを好んで相下らず、ついに齟齬して去った。
- 萬厯十年(1582年)に卒した。少保を贈られ、文肅と諡された。
殷士儋――出自と隆慶朝の礼制
- 殷士儋は字を正甫といい、厯城の人。嘉靖二十六年(1547年)の進士で、庶吉士に選ばれ檢討を授かった。久しくして裕王の講官を務め、およそ君徳・治道に関わることには危言激論を発し、王は色を動かした。右贊善に遷り洗馬に進んだが、直論は元の通りであった。
- 隆慶元年(1567年)、侍讀學士に抜擢されて翰林院の事を掌り、禮部右侍郎に進み、まもなく吏部に改められた。翌年春に禮部尚書を拝して詹事府の事を掌り、その冬に還って部の事を理めた。
- 隆慶四年(1570年)正月の朔と望に日食・月食がともにあったとき、士儋は疏を上って、徳を布き刑を緩め、諫を納れ用を節し、内外の臣工を飭して民の苦しみを講求されるよう請うた。聞き置くとの返答があった。旧恩によって太子太保に進んだ。
- 当時、寒暑にはいずれも講を罷めていた。士儋は故事の通り四時に絶やさぬよう請い、あわせて祖訓および大學衍義・貞觀政要を進講した。帝は嘉して納れた。
殷士儋――肅王の嗣をめぐる争いと入閣
- 初め世宗が宗藩條例を定めたとき、親王に後がなければ兄弟および兄弟の子で嗣がせ、傍系で継がせてはならないとした。
- 嘉靖末、肅懷王が薨じて子がなく、その大母の定王妃が輔國將軍縉□に嗣がせるよう請うた。禮部は縉□が実は懷王の従叔であって祧を承けられないと議し、将軍のまま府事を摂らせることを許す詔が下った。
- 帝が即位すると王妃はまた請うたが、前尚書髙儀が不可と執った。縉□は中官に重く賄し、宗人に属して奏させ祈って必ず得ようとした。士儋はこれを持することはなはだ力めた。帝は肅藩が遠く塞に在って、王がなければ鎮められないとして、ついに縉□に嗣がせることを許した。士儋は争って、肅府は甘州から蘭州に移っており実は内地である、と言い、あわせて別に郡王の賢者を選んで府事を理めさせ、私の請いに従って條例を壊されぬようにと請うた。しかし帝の意は堅く奪えなかった。士儋はそこで郡王に封じ、諸宗もおおむねこれをもって令として事に従うよう請うたが、帝はついに許さなかった。
- 故事では郊が終わると慶成宴を挙げることになっていたが、世宗が政に倦んでから典礼は久しく廃れていた。帝は即位して三年になってもまだ挙行していなかった。士儋がはじめて旧儀を考え定めてこれを行った。
- 十一月、本官のまま文淵閣大學士を兼ねて入閣し事を辨ずるよう命じられた。ほどなく諳達の封事が成ると少保に進み、武英殿に改められた。
殷士儋――髙拱との衝突と致仕
- 初め、士儋は陳以勤・髙拱・張居正とともに裕邸の僚であった。三人はみな政柄を用いたが、士儋はなお尚書のままであったので、望みがないわけにはいかなかった。
- 髙拱は平素張四維と善く、引いて政を共にしようとしたが、士儋が自分に親しまぬのを憎んで援けようとしなかった。士儋はそこで太監陳洪の力を藉りて中旨を取って入閣した。そのため髙拱と張四維を怨んだ。
- 張四維の父が塩の利を擅にしたことを御史郜永春に弾劾され、事はすでに解けていたが、他の御史がまたこれに及んだ。髙拱・張四維は士儋の指図から出たと疑い、いよいよ相構えた。
- 御史趙應龍がついに、士儋は陳洪によって進んだのだから大政に参ずべきでないと弾劾した。士儋は再び弁じて去ることを求めたが允されなかった。しかも髙拱の門生の都給事中韓楫があらためて揚言して脅した。士儋もまた髙拱の指図から出たと疑った。
- 故事では給事中は朔望に閣に入って会揖することになっていた。士儋は面と向かって韓楫を詰り、「君は私に恨みがあると聞く。恨むのは勝手だが、他人の使いとなるな」と言った。髙拱が「体をなさぬ」と言うと、士儋は勃然として起ち、髙拱を罵って言った。汝は陳公を逐い趙公を逐い、また李公を逐い、今また張四維のために我を逐おうとする。汝はつねにこの座を保てるとでも思うのか、と。腕を奮って殴ろうとし、張居正がかたわらから解いたが、なお罵りながら向かった。
- 御史侯居良があらためて、士儋は初めの進み方が正しくなく退き方も勇ましくないと弾劾した。士儋が重ねて疏を上って請うこといよいよ力めたので、道里の費を賜り伝馬で帰らせ、有司は廩・隸を故事の通り給した。
- 家居すること十一年で卒した。当時、張居正は死に瀕しており、張四維が政を執って士儋を怨んでいた。太保を贈られ、文通と諡された。久しくして文莊と改諡された。