明史卷一百九十三 列傳第八十一 陳以勤

裕王の講官として

  • 陳以勤は字を逸甫といい、南充の人。嘉靖二十年(1541年)の進士で、庶吉士に選ばれ檢討を授かった。久しくして裕王の講官を務め、修撰に遷り、洗馬に進んだ。
  • 当時、東宮の位号がまだ定まらず、群小が多く釁を構えていた。世宗は父子の情が平素薄く、裕王は歳時にも燕見を得られなかった。常禄のほかに例として給賜があったが、王も敢えて請わず、三年積もって邸中は甚だ窘した。王の左右が千金を嚴世蕃に賄すと、嚴世蕃は喜んで戸部に属し、三年分の資をまとめて給することができた。
  • しかし嚴世蕃はつねに自ら疑っていた。ある日、人を屏けて以勤および髙拱に「殿下は近ごろ惑いの志がおありと聞くが、家大人(父の嚴嵩)をどう思っておられるのか」と言った。髙拱はわざと戯言で応じたが、以勤は正色して言った。国本は黙かに定まって久しい。生まれたときの命名が后に従い土に従い、九域に首出するとあるのは、これは君(皇帝)の意である。故事では諸王の講官は檢討を用いるだけであるのに、今は編修を兼ね用いて他の邸とひとり異なる。これは相(嚴嵩)の意である。殿下はつねに首輔を社稷の臣と言っておられる。君はどこからこの言葉を受けたのか、と。嚴世蕃は黙然として去り、裕邸はそこで安んじた。
  • 講官となること九年、羽翼の功があったが深く自ら晦まし匿した。王はかつて「忠貞」の二字を書いて賜った。
  • 父の喪が除かれると還って侍讀學士となり翰林院を掌り、太常卿に進んで國子監を領し、禮部右侍郎に抜擢され、まもなく左に転じ、吏部に改められて詹事府を掌った。

穆宗朝の輔政と致仕

  • 穆宗が即位すると、以勤は自ら潜邸の旧臣であることから、始めを謹しむ十事を条上した。志を定めること、位を保つこと、天を畏れること、祖に法ること、民を愛すること、倹を崇ぶこと、権を攬ること、人を用いること、下に接すること、言を聴くことである。中でも権を攬ること、言を聴くことがとりわけ切であった。その忠懇を嘉する詔が下った。
  • 隆慶元年(1567年)春、禮部尚書兼文淵閣大學士に抜擢されて機務に参じ、累進して少傅兼太子太傅を加えられ、武英殿に改められた。
  • 穆宗の朝は講筵も稀にしか御されず、政に裁決するところがなく、近倖の多くが内降によって厚い恩を得ていた。以勤は精を励まして政を修めるよう請い、帝は心を動かして何か挙措しようとしたが、ついに内侍に阻まれ、疏もまた留められた。
  • 隆慶四年(1570年)、時務の因循の弊を条上し、擢用を慎むこと、久任を酌むこと、贓吏を治めること、人を広く用いること、民兵を練ること、農穀を重んずることを請うた。帝は嘉して所司に下して議させた。髙拱が吏部を掌っており、言うところが己の職を侵すのを憎んでその奏を寝めたので、都察院が贓吏を行うことの一事を議しただけであった。
  • 初め以勤が入閣したとき、徐階が首輔で髙拱はまさに用いられようとしており、朝士は各々附くところがあって互いに攻め合った。以勤は中立して比するところがなく、また私人もなかった。徐階と髙拱が去るまで、これを謗る者はなかった。
  • 髙拱が再び入って趙貞吉と軋み、張居正がさらに中で構えたとき、以勤は髙拱とは旧僚、趙貞吉はその同郷、張居正は自らが挙げた士であったので、解けぬと察し、ついには諸人に容れられぬことを恐れて、力めて病を理由に罷めることを求めた。そこで太子太師・吏部尚書を兼ねることに進められ、勅を賜って伝馬で帰り、その子で編修の陳于陛に侍って行くよう詔された。
  • 二年後、髙拱が逐われて倉皇と国門を出るとき、「南充は哲人である」と歎じた。
  • 以勤は帰って十年、年七十になったとき、あらためて上方の銀幣を頒ち、陳于陛に馳せ帰ってこれを賜るよう命じ、しかも有司に存問させた。さらに六年で卒した。太保を贈られ、文端と諡された。陳于陛には別に伝がある。