出自と吏部の刷新
- 嚴訥は字を敏卿といい、常熟の人。郷試に及第したが、主司の試錄が忌諱に触れたため一榜そろって会試を受けられなかった。
- 嘉靖二十年(1541年)に進士となり、庶吉士に改められ、編修を授かり、侍讀に遷った。
- 三吳がしばしば倭患に遭い、しかも歳ごとに大いに凶作で、民の死者・流亡者はほぼ半ばに及んだのに、有司の徴斂はいよいよ急であった。訥は疏を上って民の困窮を陳べ、蠲免と貸与を請うた。帝は疏を得て感動し、その請いの通りに答えた。
- まもなく李春芳とともに西苑に入直して青詞を撰し、超越して翰林學士を受けた。太常少卿、禮部左右侍郎を歴て吏部に改められたが、いずれも學士を兼ね、なお西苑に直した。撰した青詞はいずれも旨に称った。
- 禮部尚書郭朴が吏部に遷ると、訥がこれに代わった。郭朴が父の喪に遭うと、あらためて代わって吏部尚書となった。
- 嚴嵩が国を当たって以来、吏道は汚れ雑れていた。嚴嵩が敗れたのち郭朴が銓を典ってもなお尽くは変えられなかった。訥はつねづね自ら飭めることを意とし、徐階も心を推してこれに任せた。
- 訥はそこで朝士と約して、事があれば朝房で申せ、私邸に謁するなとし、曹郎を慎んで択び、務めて奔競を抑え淹滞を振るった。また資格が拘りすぎて人才を尽くせないとして、先朝の三途並用の法に倣い、州県の吏で政績の異なる者を破格に超擢した。銓政は一新した。
- まもなく供奉の労を録して太子太保を加えられた。
入閣と致仕
- 嘉靖四十四年(1565年)、袁煒が罷められると、武英殿大學士を兼ねて機務に参ずるよう命じられた。後任の郭朴がまだ到着しなかったので、なお銓政を掌った。
- 帝は西苑に斎居し、侍臣の直廬はみな苑中にあった。訥は朝に出て部の事を理め、暮れには直廬に宿して青詞を供奉した。小心謹畏のあまり病となり、久しく癒えなかった。その年の冬十一月、ついに帰ることを乞うた。一年を越えて世宗が崩じ、ついに再び出仕しなかった。
- 訥が郷里に帰ったとき父母はいずれも健在で、朝夕に潔い食事を供して孝養したので、人はこれを栄とした。
- 訥はかつて人に「銓臣と輔臣は心を同じくしてこそ済すところがある。私が銓を掌ること二年、たまたま華亭が国を当たっていたので事に阻むところがなく、しかも任じた選郎が賢明で、挙げて人を失することがなかった」と語った。華亭とは徐階、選郎とは陸光祖のことである。
- 家居すること二十年で卒した。年七十四。少保を贈られ、文靖と諡された。
袁煒――附伝
- 袁煒は字を懋中といい、慈谿の人。嘉靖十七年(1538年)の会試第一、殿試第三で編修を授かった。煒は性行が不羈で、御史包孝に弾劾されたが、帝は宥して罪しなかった。侍讀に進んだ。
- 久しくして選ばれて西苑に直し、青詞を撰して最も旨に称った。
- 嘉靖三十五年(1556年)、閣臣が修撰全元立を南京翰林院の掌に推したが、帝はとくに煒を用いた。煒は疏を上って辞し、故官のまま供奉したいと願った。帝は大いに喜んでただちに煒を侍講學士に抜擢し、わずか二箇月で手詔をもって禮部右侍郎を拝させた。
- 翌年、太子賓客兼學士を加え、一品の服を賜った。三十九年(1560年)、あらためて供奉の恩によって俸二等を加え、ほどなく左侍郎に進んだ。翌年二月に吏部に調され、兼官と供奉は元の通りであった。一月を越えて禮部尚書に遷り、太子少保を加えられ、なお入直するよう命じられた。煒が供奉に就いてから六年の間に宮保・尚書に進んだのは、前例のないことであった。
- これより先、二月朔に日食があったが陰りが微かであった。煒は救護すべきでないと言い、禮部尚書呉山が従わずに譴を得て去った。帝は煒の言を聞いて善しとし、そこで呉山に代えたのである。
- 七月朔にまた日食があり、暦官は食が一分五杪にとどまるので例により救護を免ずると言った。煒はそこで帝の意に阿って上疏し、陛下は父として天に事え兄として日に事えられ、群陰は退き伏して万象は輝き華やいでいる。それゆえ太陽は晶らかに明るく氛祲は銷け爍けた。食が一分にとどまるのは食がないのと同じである。臣らは欣忭に堪えない、と言った。疏が入ると帝はいよいよ喜んだ。
- その冬、戸部尚書兼武英殿大學士として入閣し機務を典るよう命じられ、累進して少傅兼太子太傅・建極殿大學士を加えられた。
- 嘉靖四十四年(1565年)春、病が篤くなり暇を請うて帰り、道中で卒した。年五十八。少師を贈られ、文榮と諡された。
- 煒は才思が敏捷で、帝が夜半に片紙を出して青詞を撰するよう命じても、筆を挙げてたちどころに成した。内外から瑞が献ぜられれば、そのたびに言葉を極めて頌え美めた。帝が飼っていた猫が死んだとき、儒臣に詞を撰して醮を行うよう命じたが、煒の詞に「獅を化して龍と作す」の語があり、帝は大いに喜んだ。詭りの言葉で上に媚びることは多くこの類であった。そのため帝は急いで枋として用い、恩賜は重なり、他人の望むところではなかった。
- 嘉靖の中年より帝はもっぱら焚修を事とし、詞臣はおおむね青詞を供奉して、巧みな者はたちまち超擢され、ついには入閣に至った。当時、李春芳・嚴訥・郭朴および煒を「青詞宰相」と称した。
- しかし煒は貴く倨り、清らかさに乏しかった。もと徐階の門から出たのに、そのまま気で徐階を凌いだ。徐階とともに承天大志を総裁したとき、諸学士が稿を呈すると煒はほとんど残らず竄改し、徐階に譲らなかった。諸学士は不平としたが、徐階はただ「任せておけばよい」と言った。のちに煒が死ぬと、徐階もまたことごとくこれを竄改した。
- 煒は文を能くすると自負し、他人の作を見て少しでも意に当たらなければ、すぐさま詆り誚った。館閣の士でその門から出た者への斥辱はとりわけ堪えがたく、そのため人はみな畏れて憎んだ。