明史卷一百九十二 列傳第八十 張澯

出自と王瓊の誘いを拒む

  • 張澯は字を景川といい、廣東順徳の人。祖父の張善昭は四川僉事から臨江通判に謫された。
  • これより先、練子寧の親党で臨江に戍されていた者が八十余人いた。善昭は上書して言った。子寧の忠は日月を貫く。太宗は「もし子寧が在れば朕は固より用いたであろう」と言われ、仁宗もまた方孝孺らを忠臣と言われた。すでに忠と認められた以上、なにゆえ外親・末属までなお奸悪として刺配され、百年も宥されぬのか、と。疏は行われなかったが、内外はみなこれを壮とした。
  • 澯は正徳九年(1514年)の進士に及第し、建平知縣を授かった。巡江御史賀洪に忤らって廣昌に改め調され、賀洪の罪を訟えた。賀洪は坐して籍を削られた。
  • 澯は廣昌から禮部主事に遷り、會同館を監督した。
  • 尚書王瓊は都御史彭澤と隙があり、彭澤が土魯番に使いを遣わして金幣を許し哈密の城印を贖ったことを彭澤の罪としようとした。そこで館にいた番人を嗾けて彭澤の過悪を暴かせ、澯を誘って牒に署名させようとし、「彭澤のしたことは南宋の覆轍である。事が成れば顕らかに擢用しよう」と言った。澯は力めて拒んで言った。王公は誤っておられる。彭澤と土魯番との檄はことごとく残っている。どうして宋の和戎に比べられよう。昔、范仲淹もかつて元昊に書を致した。どうして彭澤だけを咎めるのか、と。署名しようとしなかった。
  • まもなく員外郎に進み、杖を受けて死んだ。

仵瑜――附伝

  • 仵瑜は字を忠父といい、蒲圻の人。父の仵紳は工部主事。瑜は少年のころから志操があり、正徳十二年(1517年)に釈褐するとすぐ病と称して去った。起こされて禮部主事に補せられたが、また病を理由に帰った。
  • 世宗が践阼すると故官に起こされた。疏を上って、聖学に勤めること、親を親しむに篤いこと、言路を開くこと、大臣を敬うこと、諍臣を選ぶこと、浮屠を去ること、困窮を拯うこと、守令を重んずること、武備を修めること、人材を蓄えることの十事を陳べた。やがてついに杖下に死んだ。

臧應奎――附伝

  • 臧應奎は字を賢徴といい、長興の人。正徳十二年(1517年)の進士で、南京車駕主事を授かった。進貢の中官が定額を越えて舟を索めたので、力めて裁き減らした。中官が卒を遣わして部で騒がせると、左右を叱ってこれを捕らえさせ、卒は遁げ去った。
  • 父の生母が卒したとき、法では承重できなかったが、私かに三年の喪を執った。入って禮部主事となり、まもなく杖されて死んだ。
  • 應奎は湛若水の門に学び、聖賢をもって自ら期した。かつて文廟を過ぎたとき、慨然として友に「我らも没すればまたその間に爼豆されるべきである」と言った。その志を立てることはこのようであった。

胡璉・余禎・李可登・安璽・殷承叙――附伝

  • 郎中の胡璉は字を重器といい、新喻の人。正徳六年(1511年)の進士で、刑部に官した。かつて武宗の南巡を諫めて杖を受けた。
  • 主事の余禎は字を興邦といい、奉新の人。正徳九年(1514年)の進士。
  • 司務の李可登は字を思善といい、輝縣の人。𢎞治末の郷薦。ともに兵部に官した。可登は平素慷慨で忠義をもって自ら許し、ついにその志の通りとなった。
  • 戸部主事の安璽は宛平の人。正徳十六年(1521年)の進士。
  • 刑部主事の殷承叙は江夏の人。正徳九年(1514年)の進士。
  • 穆宗が位を嗣ぐと、胡璉に太常少卿、張澯に太僕少卿、仵瑜・臧應奎・殷承叙・安璽・余禎に光禄少卿、李可登に寺丞を贈った。