明史卷一百九十二 列傳第八十 毛玉

出自と歴官

  • 毛玉は字を國珍、のち字を用成と改めた。雲南右衛の軍家の子で、その先は良鄉の人。𢎞治十入年(弘治十八年、1505年)の進士に及第した。
  • 正徳五年(1510年)、行人から南京吏科給事中に抜擢された。劉瑾が敗れたのち大盗が蜂起すると、玉は「大學士焦芳・劉宇こそ実に天下を乱した。顕らかに僇して万姓に謝されたい」と言った。
  • 群盗が山東・河南を優したとき、玉は留都を備えるよう請うた。やがて盗は果たして江を渡ったが、備えが厳しかったので犯すことができなかった。
  • 外艱で去り、南京兵科に起こされた。御史林有年が烏斯藏に仏を迎えることを諫めて獄に下されると、玉は抗疏して救い、林有年は軽い罰で済んだ。また継母の喪で去り、服が明けて吏科に除せられた。

世宗朝の弾劾と伏闕

  • 世宗が即位して一年を越えると、興邸の諸内官が帝の寵を恃んで次第に驕り、また故太監谷大用・魏彬らが相次いで復起を謀った。事が芽生えかけたところで、玉はただちに抗疏して武宗時の事を歴叙し、帝に嗜欲を戒め請託を杜いで僥倖の門を破り蠱惑の隙を塞ぐよう勧めた。帝はこれを納れた。
  • 御史曹嘉はもとより軽率で険しく、宋の范仲淹の百官図に倣って廷臣を四等に分け品題を加えた。給事中安磐が疏を上って駁し、唐の王珪が房玄齡らを論じ、本朝の解縉が黄福らを論じたのは、いずれも君命を承けて品藻したのであって、曹嘉のように漫然と口吻を恣にした例はない、と言った。玉もまた、曹嘉は成法に背き国是を変乱していると言い、斥けるよう乞うた。帝はその言に従って曹嘉を外に貶した。
  • 御史許宗魯が曹嘉のために訟えて玉を斥けるよう請い、その同官の倫以謀も助けて言った。給事中張原は、庶僚が集まって訟え朝廷が多事となり国体を重く損なうとして、自ら先んじて斥け罷めてほしいと乞うた。玉もまた疏を上って去ることを求め、許宗魯らは朋友の私恩を知って朝廷の大体を顧みない。臣一身の係るところは至って微かでも、公論の関わるところは甚だ大きい。臣を罷めて御史に謝されたい、と言った。帝はいずれも慰留した。
  • 当時、宸濠の戚属で連坐して逮えられた者が数百人あった。玉は命を奉じて往き訊問し、多くを全うし活かした。あわせて、宸濠が乱を称したのは左右が賂を貪って醸成したものだと言い、事に死ななかった守臣を弾劾し、天下の有司が藩府と交通することを禁じた。帝はいずれも従った。
  • 再び遷って左給事中となり、まもなく闕に伏して大礼を争い、獄に下されて杖を受け、ついに卒した。のち光禄少卿を贈られた。

裴紹宗――附伝

  • 裴紹宗は字を伯修といい、渭南の人。正徳十二年(1517年)の進士で、海門知縣に除せられた。武宗の南巡のとき檄を受けて江都の事を署したが、権倖もこれを憚り、供応は大いに省かれた。
  • 世宗が即位すると召されて入り兵科給事中となり、ただちに疏を上って祖に法り制を定めるよう請うた。
  • その趣旨は次の通り。太祖の遺された謀は尽く善であった。大臣を重んじ、朝に視ることに勤め、親ら田野を歴、洗い晒した衣を服し、宮中に蔬菜を種え、鏤金の牀を毀ち、水晶の漏を砕き、観心亭を造って大學衍義を掲げた類は、陛下が繹ね思って祖述されるべきである。二、三の大臣もとりわけ朝夕に誨えを納れて聖徳を輔け養うべきである。陛下が日々便殿に御して儒臣に親しみ、耳目が淫邪に蔽われず、左右が憸佞に惑わされなければ、君の志はもとより定まり治功は成る、と。帝は嘉して納れた。
  • 帝が興獻帝に皇号を加えようとしたとき、紹宗は力諫した。
  • 嘉靖二年(1523年)冬、帝が災異の頻発を理由に翌年の郊祀の慶成宴を罷めようとした。紹宗は、祭祀の礼は郊丘より重いものはなく、君臣の情は宴享によって必ず通ずる。先に国戚のことで大礼を廃したが、今はすでに吉に従うのだから挙行すべきである。どうして災傷によってまた免ぜられようか、と言った。修撰唐臯もこれを言い、ついに礼の通りとなった。
  • 翌年、闕に伏したことで杖を受けて卒し、毛玉と同じく官を贈られた。