出自と諫言
- 張原は字を士元といい、三原の人。正徳九年(1514年)の進士で、吏科給事中を授かった。
- 疏を上って、冗食を汰すること、工作を慎むこと、貢献を禁ずること、賞罰を明らかにすること、言路を広めること、徳学を進めることの六事を陳べた。
- 中でこう言った。天下は幅員万里であるのに、ひとたび事を挙げれば計臣はすぐ蓄えが乏しいと告げる。民が貧しいからである。民はなぜ貧しいか。守令の収斂と中臣の貢献がそうさせるのである。近年、軍需の雑輸は前の制の十倍で、いずれも守令から調達させる。守令はこれに藉りて自ら肥やすので、また上供の十倍になる。民はすでに困っているのに、貢献する者はさらに巧みに名目を立て、新奇を争って「孝順」と号する。民から取るのが十百で、上に進めるのは一、二である。朝廷が何を楽しんでこれを受けられようか。
- また、人君が下を馭するのは賞と罰だけである。近ごろ庸才・厮養で侯に封じられ玉を腰にせぬ者はなく、あるいは足が門を出ぬのに賞を受け、身が陣を履まぬのに功を奏する。敵を禦いだ者はついに恩に沾わず、軍を覆した者は多く罪を逃れる。これが士卒の解体する所以である、と。
- 疏が入ると権倖はこれを憎み、伝旨で新添驛丞に謫された。
- 嘉靖初に召されて兵科に復し、なお俸一級を加えられた。
- 南寧伯毛良がその子を殺し、錦衣掌印指揮朱震らが違法縦恣であったので、原は前後にこれを論じ、いずれも職を奪われ閑居させられた。
- 帝が張鶴齡を昌國公に進め、陳萬言を太和伯に世襲で封じ、萬言の子紹祖に尚寳丞を授け、また外戚の蒋泰ら五人を錦衣千戸・百戸としたとき、原は抗疏して極言し、裁節を行うよう請うた。
- まもなく建昌侯張延齡が民の地を強占したこと、定國公徐光祚の子および外戚の玉田伯蒋輪・昌化伯邵蕙の家人が擅に威福を作していることを弾劾した。事はことごとく行われはしなかったが、権貴はみな震え懾れた。
- 戸科右給事中に進んだ。門を揺すって哭き、重ねて杖されて傷が重く卒した。貧しくて帰葬できなかった。久しくして都御史陳洪謨が、原および毛玉・裴紹宗・王思・王相・胡瓊らの妻子が流離している有様を詳しく陳べ、朝に恤みを請うたが許されなかった。隆慶元年(1567年)に光祿少卿を贈られた。