出自と歴官
- 張漢卿は字を元傑といい、儀封の人。正徳六年(1511年)の進士で、魏縣知縣を授かり、召されて刑科給事中を拝した。
- かつて僥倖を杜ぐこと、儲積を広くすること、刑獄を慎むことの三事を陳べ、時弊に深く切実であったが返答はなかった。武宗が南巡しようとしたときは同官とともに闕に伏して諫めた。
- 世宗が位を嗣ぐと、巡撫李鐸の言に従って帑金二十万を発して宣府の軍民を優卹した。漢卿の言によってあわせて十三万を大同にも発した。
- しばしば遷って戸部都給事中となった。
荘田・織造・振済をめぐる争い
- 嘉靖元年(1522年)冬、同官とともに上言した。陛下は畿輔の荘田の害を軫念され、官を遣わして会勘させ、正徳以後の投献および額外の侵占はことごとく民に給するよう勅された。王言がひとたび天下に布かれ、誰が陛下の仁を誦えぬであろうか。しかるに給事中夏言・御史樊繼祖・主事張希尹が涿州の薰皮厰、安州の鷹房・草場を勘べて上ったところ、詔旨で留め用いるとされ、所司が執奏してもついに従われない。これでは大信を全うし至公を昭らかにする所以ではない。皮厰は馬永成に起こり、鷹房は谷大用に創まり、いずれも民の業を奪って作られた。今、馬俊・趙霖は藩邸の旧恩を恃んで免革を妄りに求めている。これは馬永成・谷大用の故轍を再び踏むものである。ことごとく民に還し、馬俊・趙霖を欺罔の罪で厳しく罰して戒めとされたい、と。
- 后の父陳萬言が新邸の営建を請い、続いて荘田を乞い、内官吳勲らが蘇州の織造を督することを請うたとき、漢卿はいずれも極諫したが納れられなかった。
- 應天の諸府が大旱に遭い、帝が淮浙の余塩および没収した産を売って銀に換え振済しようとしたとき、漢卿は、銀に換えるのでは緩やかである、帑金を発するほかない、と言った。帝は銀十五万を発した。
- まもなく同官とともに言った。今、天下の一年の供給は一年の用に足りず、加えて水旱が頻りで物力は尽き屈している。陛下はまさに躬ら節倹を行っておられるのに、中官梁棟らは営造に珠宝が欠けると奏している。これは戸部の銀を括ろうとするものである。梁政らはまた蠲免した三分の数を京倉から撥き補わせようとしている。これは太倉の粟を耗らそうとするものである。そもそも内庫が足りなければ計部から取り、計部が足りなければ郡邑の小民から取る。郡邑の小民はどこから取ればよいのか。今、東南は重ねて飢え、民は骨肉相食むに至っているのに、搜括の令が頻りに行われる。臣らはひそかに不可と考える、と。聞き置くとの返答があった。
- やがてまた席書の振済が方を失していると弾劾し、官を遣わして勘べその欺罔の罪を正すよう乞うた。帝はちょうど席書を甚だ眷寵しており、駅伝で召して禮部尚書としたので、罪しなかった。
- 初め、興獻帝に皇号を加える議のとき漢卿は力争し、ここに至ってまた衆に率先して闕に伏し、二度杖を受けて斥けられ民とされた。嘉靖二十年(1541年)、言官の邢如黙・賈準らが天下の遺賢を会薦して漢卿にも及んだが、ついに召されなかった。