明史卷一百九十二 列傳第八十 張翀

出自と宦官の鎮守を論ずる

  • 張翀は字を習之といい、潼川の人。正徳六年(1511年)の進士で庶吉士に選ばれ、刑科給事中に改められた。病を理由に帰り、戸科に起こされた。
  • 世宗が即位すると、天下の額外の貢献を罷める詔が下った。翌年、中都鎮守の内官張陽がまた新茶を貢いだ。禮部が詔の禁に遵うよう請うたが許されなかった。翀は言った。陛下の詔の墨がまだ乾かぬうちに、たちまち翻される。人は朝廷を窺い測り、政令を玩び侮ろう。しかも張陽は茶を貢ぐと名づけて、実は他の物を雑えて致している。四方がこれに倣えば、どこに際限があろうか。前の詔を守り奸謀に堕ちられぬよう願う、と。聴かれなかった。
  • 寧夏の歳貢の紅花は大いに軍民の害となり、内外の鎮守官は着任するとおおむね馬を貢いで恩を謝していた。翀はいずれも罷めるよう請うた。帝はその言を是としたが、従うことはできなかった。
  • まもなく言った。中官が出て鎮守するのは太祖・太宗の旧制ではない。景帝が国家の多故に遭って偶々一度これを行い、内臣は朝廷の家人であるから、急な事があれば来奏させるのだと言ったにすぎない。しかるに先年、宸濠が叛を謀ったとき、鎮守太監王宏はかえって逆を助けた。内臣が果たして恃むに足りようか。時が平らかであれば尊栄を坐して享け、百姓に毒を逞しくし、変に遇えば心に顧望を懐いて封疆を恤まない。速やかに罷めねばならぬ、と。のち張孚敬が宰相となってついに諸鎮守を罷めたが、その議は実に翀に発する。
  • しばしば遷って禮科都給事中となり、また言った。近ごろ紫禁の内に禱祠が繁く興り、乾清宮の内官十数輩が経典を究め習い、科儀を講誦し、賞賚は分を越え、寵幸は日に密である。これは先朝の罪人の遺党、たとえば太監崔文らが邪術を挟んで試みを謀り、陛下がその愚弄に遭われて、彼らが奸欺を逞しくし政事を干し撓し、群邪を牽き引いて太平の業を傷つけ四海の望を失わせているのである。ひそかに計るに、陛下は君子を遠ざけてもその徒を斥けるに忍びず、讜言を棄ててもその教えに違うことを欲しられない。年を延ばし疾を癒せると思われるからであろう。
  • さらに続けて言った。かたわらより聞くに、近ごろ嬪御・女謁が閨幃に充ち塞がり、一、二の黠慧で柔らかな者の惑わしがとりわけ甚だしい。これによって日講を怠り召対を疎かにし、政令は多く僻み起居は度を失っている。小人はその隙を窺い見て左道をもって蠱惑する。齋醮を恃むに足るとして宮壺の間に欲を恣にし、荒淫を害なしとして邪妄の術に福を邀えるのは、古の帝王が福を求めて回らぬ道ではない、と。
  • 嘉靖二年(1523年)四月、災異によって六科の諸臣とともに上疏した。
  • その趣旨は次の通り。昔、成湯は六事をもって自ら責めて「政が節せられぬのか、民が職を失っているのか、宮壺が崇いのか、女謁が盛んなのか、苞苴が行われているのか、讒夫が昌んなのか」と言った。今、誠に近ごろの事をこれに較べてみよう。
  • 快船をようやく減らしたのに、たちまち戴保の増添の奏を允され、鎮戍をようやく裁いたのに、あらためて趙榮の分守を聴かれた。馬房を核べる詔を出されたのに、閻洪の一言で沮まれ、軍匠を汰する詔を出されたのに、まもなく監門の群がる騒ぎに奪われた。これでは政が節せられているとは言えない。
  • 末業は奇巧を競い、遊手は閭閻の半ばを占め、耕桑は時を廃して生活の資を欠き、教化は聞かれず軽薄な習いを成している。これでは民が職を失っていないとは言えない。
  • 両宮の営建に材木を採り運ぶ苦しみは、一木に人夫数千を役し、一椽に財を十百費やす。死亡が枕を並べる有様、呻吟号嘆の声を、陛下はご覧になれず聞かれない。これでは宮壺が崇くないとは言えない。
  • 奉聖・保聖の号が册后より先に女寵に与えられ、荘奉・粛奉の名が乳母に特別の称として連ねられた。あるいは恩を承けて漸く飛燕に近く、あるいは黠慧なること婉兒に劣らない。内には主上の性情を移し、外には近習の頼みとするところを開いている。これでは女謁が盛んでないとは言えない。
  • 窮まりない奸の鋭雄が賂遺を恣にして籍没の律を逃れ、極悪の鵬鎧が密かに請託を行って三年の誅を逋れた。銭神は霊験あって王英は錦衣で改めて訊かれ、関節が通じて于喜はついに禁綱を漏れた。これでは苞苴が行われていないとは言えない。
  • 獻廟の主祀は府部の議を屈して王槐の諛佞の謀を用い、重臣への批答は体貌の宜しきを欠いて群小の讒間の論を容れている。あるいは讒りが内から発して陰に毒を逞しくし、あるいは讒りが外に行われて顕に排擠を逞しくする。上は朝廷の是非を汨し、下は人物の邪正を乱す。これでは讒夫が昌んでないとは言えない。
  • およそこれらはみな成湯になくして今日にあるものである。ゆえに斧鉞の誅を避けず、責難の義に附して陛下の採納を望む、と。
  • その年冬、中官に蘇州・杭州の織造を督させるよう命じた。朝廷こぞって阻んだが得られず、翀は同官の張原らとともに重ねて力争した。
  • 当時、世宗の初政で楊廷和らが内閣にあり、群小はすでに事を用いていたものの正論はなお伸びていた。翀は前後に指弾して避けるところがなく、帝は用いなかったが、また聞き置くとして罪しなかった。

大礼の議と謫戍

  • 翌年三月、帝は桂萼の言によって獻帝を考とすることに鋭意し、しかも禁中に廟を立てようとした。翀はまた同官とともに力諫した。帝はそこで朋党の言で政を乱すと責め、俸を奪うよう命じた。
  • やがて尚書喬宇らを助けて重ねて疏を上り、内殿に室を建てる議を争い、詔で厳しく譲められた。呂柟・鄒守益が獄に下されると、翀らは抗疏して救った。
  • 張璁・桂萼が召されて到着すると、翀は給事三十余人とともに章を連ねて、二人は賦性奸邪で立心憸佞であり、宗廟を変乱し宮闈を離間し、詔書を詆毀して善類を中傷している。速やかに退けて人臣の不忠の戒めとされたい、と言った。いずれも納れられなかった。
  • 帝がいよいよ獻帝を考とし孝宗を伯考と改めようとしたので、翀らは憂えた。折しも給事中張漢卿が席書の振荒の不法を弾劾し、戸部尚書秦金が官を遣わして勘べるよう請い、帝はこれを是とした。翀らはそこで廷臣が桂萼らを弾劾した章疏を取って刑部に送り、上請させることとし、しかも私かに語り合って「もし上もまた是とされるなら、そのまま撲ち殺そう」と言った。
  • 張璁らがその言葉を報じたので、帝は疏を留めて下さず、刑部尚書趙鑑らを「邪に朋して正を害した」と責め、翀らを「義に陥り忠を罔いた」と責め、張璁・桂萼を學士に進めた。廷臣は顔を見合わせて駭き歎じた。
  • 諸曹はそこで各々一疏を具え、孝宗を伯考と称すべきでないと力説した。署名した者は二百二十余人に及んだが、帝はみな留めて返答しなかった。
  • 七月戊寅、諸臣は相率いて左順門に伏して懇請した。帝は二度中官を遣わして諭したが退かず、そこで震怒した。まず諸曹の首謀者八人を詔獄に逮え、翀もその中にあった。まもなく廷で杖され、瞿塘衛に謫戍された。張璁・桂萼の寵はいよいよ盛んになった。
  • 翀は戍所に居ること十余年、東宮冊立の恩によって放還され、卒した。