明史卷一百九十二 列傳第八十 王思

出自と乾清宮火災への上疏

  • 王思は字を宜學といい、太保王直の曾孫である。正徳六年(1511年)の進士で庶吉士に改められ、編修を授かった。
  • 正徳九年(1514年)春、乾清宮が火災に遭うと、思は詔に応じて上疏した。
  • その趣旨は次の通り。天下の治は紀綱に頼り、紀綱の立つか否かは君の身に係るだけである。私恩が近習に偏らず、政柄が左右に移らなければ、紀綱は立って宰輔はその志を行い、六卿はその職を専らにできる。今、内閣の執奏がまさに堅いところへ伝奉に撓められ、六卿の擬議がすでに定まったところへ内批に阻まれる。これが紀綱の廃れる所以である。陛下が私恩を抑え政の本を端しくし、用捨を讒言によって移さず、刑賞を私によって曲げなければ、体統は正され朝廷は尊くなる。
  • 祖宗の故事では、正朝のほかに毎日左順門で奏事し、また時ならず便殿に召し対した。今は毎月御朝が三、五日を過ぎず、朝ごとの進奏も一、二事を越えない。徳を養う功、治を求める実は宰輔の知るところとならない。見聞の非、嗜好の過ちも宰輔の知るところとならない。天下の大きさ、四海の遠さ、生民の愁苦の状、盗賊の縦横する由来をどうして一々上達できようか。伏して願う。ことごとく旧典に遵い、宴閑に遇うたびに召し問われ、災に遇って懼れ災が過ぎて弛むことのないように。しかるのちに天下を享け天命を保つことができる、と。
  • その年九月、帝が虎を狎れて傷つき、一月を越えて朝に臨まなかった。思はまた封事を上った。
  • その趣旨は次の通り。孝宗皇帝の子は陛下ただ一人である。天下万世のために自重されるべきである。近ごろ道路の噂に、虎が檻を逸れて聖躬を驚かせたと伝わる。臣はこれを聞いて駭き懼れた。陛下は即位以来ここに九年、朝廷で政に勤めず、太廟に親ら享せず、両宮への問安を欠き、經筵の聴講に倦んでおられる。その由来を揆るに二端がある。酒を嗜んで志を荒み、勇を好んで身を軽んじられることである。これによって戒懼の心は日に忘れられ、縦恣の欲は日に進み、好悪は喜怒によって決まり、政令は多門から出て、紀綱は積もって弛み、国是は立たず、士気は摧け、人心は危疑している。上天は警を示して日食・地震があり、宗社の憂いは朝夕に迫るが如く凛としている。
  • 勇は好むべきでないが、陛下はすでに少しく懲りられたであろう。志を荒み業を廃するに至っては酒が最も甚だしい。書に「酒を甘しとし音を嗜み、峻宇雕牆、一つでもこれあれば亡びぬことはない」とある。陛下は外宮に露処し日々酒に湎れ、厮養が雑わり侍して禁衛は厳しくない。不幸にして変が倉卒に起これば、何をもって備えられるか。これが臣の大いに憂うるところである、と。
  • 疏が入って数日留められたのち、にわかに遠方の雑職に降すとの旨が伝えられ、潮州三河驛丞に謫された。
  • 思は年少で気鋭であり、いつも衆中で人の是非を指し切っていた。すでにこれを悔いて自ら歛め、質朴訥言に努めていた。謫されるに及んでは怡然として道に就いた。夜に瀧水を過ぎたとき、舟が巨石の上に漂着した。石に沿って坐り浩然と歌った。家人が後から至り、歌声を聞いて舟を寄せて渡した。
  • 王守仁が贛州で講学すると、思はこれに従って遊んだ。守仁が宸濠を討つとき、思に檄して軍議を賛けさせた。

世宗朝の諫言と伏闕

  • 世宗が位を嗣ぐと召されて故官に復し、なお俸一級を加えられた。思は疏を上って辞し、あわせて言った。陛下が敢言の気を興して壅蔽の奸を防ごうとされるなら、奏章を省覧し大臣を召見して、邪僻阿諛の説に聖徳を蠱惑させぬのが最良である。そうすれば堯舜の治が成る。そうでなければ、先朝で譴責された臣に恩を加えられても末事にすぎない、と。帝は允さず、近日俸を遷された者はみな辞退できないと命じた。
  • まもなく經筵講官を務めた。嘉靖三年(1524年)、同官とともにしばしば大礼を争ったが返答がなかった。当時、張璁・桂萼・方獻夫が學士であったので、思は同列たることを恥じ、疏を上って罷めて帰ることを乞うたが許されなかった。
  • その年七月、廷臣とともに左順門に伏して哭諫した。帝は大いに怒って詔獄に繋ぎ、三十杖した。十日を越えて重ねて杖した。
  • 思と同官の王相、給事中張原・毛玉・裴紹宗、御史張曰韜・胡瓊、郎中楊淮・胡璉、員外郎申良・張澯、主事安璽・仵瑜・臧應奎・余禎・殷承叙、司務李可登の合わせて十七人は、いずれも傷を病んで前後して卒した。隆慶初に各々一子を廕され、官を贈られることに差があった。思は右諭徳を贈られた。
  • 思の志行は流俗を超えており、李中・鄒守益と親しかった。高陵の呂柟はしきりにこれを称え、かつて「過ちを聞いて喜ぶのは季路に似、寡なからんことを欲してなお能わぬのは伯玉に似る。改齋こそその人である」と言った。改齋とは思の別号である。

王相――附伝

  • 王相は字を懋卿といい、鄞の人。正徳十六年(1521年)の進士で、庶吉士から編修を授かった。豪邁で志節を尚び、親に事えて篤く孝であった。家は貧しくしばしば窮乏したが晏如としていた。仕えてわずか四年で卒した。