出自と大礼の議
- 豐熙は字を原学といい、鄞の人。布政司豐慶の孫である。幼くして異なる稟質があり、かつて壁に大書して「志を立てるには聖人を的とすべきである。第一等の事を人に譲るのは丈夫ではない」と言った。
- 十六歳で母を喪い、数日水漿を口に入れず、倚廬に居ること三年であった。
- 𢎞治十二年(1499年)の殿試に第二で及第した。孝宗はその策を奇として第一の者の袍帯を賜って寵した。編修を授かり、侍講に進み、右諭徳に遷った。劉瑾に附かなかったため出て南京翰林院の事を掌った。父の喪が明けると故官に起こされた。
- 世宗が即位すると翰林學士に進んだ。興獻王の大礼の議が起こると、熙は礼官とともにしばしば力争した。張璁・桂萼が學士に、方獻夫が侍讀學士に召されると、熙は朝で「これは冷褒・叚猶の流である。我らが並び列するに堪えようか」と公言し、抗疏して帰ることを請うたが允されなかった。
- やがて尊称の礼が定まり、日をトして恭穆獻皇帝の諡冊を上ることになると、熙らは疏を上って諫めた。大礼の議は天下に頒って三年になる。しかるに一、二人の妄言によって「本生」の称を去り、もっぱら鞠育の報いを隆くしようとされる。臣らは命を聞いて驚き惶れ、身の置きどころを知らない。ひそかに思うに、陛下は宗廟神人の主であられる。必ず宗廟の礼が隆きを加えてこそ継統の義が失われない。もし先王の礼に乖き後世の譏りを遺されるなら、重く聖徳を累わすことにならないか、と。
- 聴き入れられず、相率いて左順門に伏して哭き、そこで詔獄に下されて拷問され、さらに闕廷で杖され、戍に遣わされた。熙は福建鎮海衛に配された。
- のちに張璁らが志を得ると、相率いて謫戍された諸臣の罪を釈すよう請い、いずれも真っ先に熙に及んだが、帝は聴かなかった。最後に謹身殿が火災に遭ったとき、熙は年七十近くになっており、給事中田濡が重ねて憐れみ宥すよう請うたが、ついに聴かれなかった。十三年居って、ついに戍所で卒した。隆慶初に官を贈られ賜恤された。
豐坊――附伝
- 子の豐坊は字を存禮といい、郷試に第一で合格し、嘉靖二年(1523年)に進士となった。出て南京吏部考功主事となり、まもなく通州同知に謫され、免ぜられて帰った。
- 坊は博学で文をよくし、あわせて書法に通じたが、性質は狂誕であった。熙が卒したのち家に居って貧乏し、張璁・夏言が片言で通顕を得たのに倣おうと思った。
- 嘉靖十七年(1538年)、闕に詣って上書し、明堂を建てる事を言い、また獻皇帝に廟号を加えて宗と称し上帝に配すべきだと言った。世宗は大いに悦んだ。まもなく睿宗の号に進めて元極殿に配饗したが、その議は坊に始まる。人々はみな坊が父に叛いたことを憎んだ。
- 翌年、卿雲雅詩一章を進めた。史館に付して命を待てとの詔が下ったが、久しくしてついに進擢されるところがなく、家に帰って悒々として卒した。
- 晩年に名を道生と改め、別に十三經の訓詁を作ったが、語は多く穿鑿であった。世に伝わる子貢詩傳も坊の偽纂だと言う者がある。