明史卷一百九十一 列傳第七十九 何孟春
何孟春(字は子元)は郴州の人。李東陽の門に学び、𢎞治六年の進士。兵部主事から陝西の馬政を理め、河南參政・太僕卿を歴て右副都御史として雲南を巡撫し、十八寨の叛蛮を平らげて永昌府を設けた。世宗の即位で吏部右侍郎となり、災害に際し漢の魏相に倣って八事を条奏、のち左侍郎に進んで喬宇の罷免後は部事を署した。大礼の議では雲南在任中から上疏して漢の宣帝・光武・晉の元帝に法るよう説き、張璁の欺妄を十三の難で論駁した。朝退の際に憲宗朝の文華門の故事を唱えて左順門の伏闕を主導し、俸一月を奪われて南京工部左侍郎に出された。嘉靖六年春に致仕、『明倫大典』の成るに及んで籍を削られ、家で卒した。隆慶初に禮部尚書を贈られ文簡と諡された。住まいの泉にちなみ燕泉先生と称された。
出自と歴官
- 何孟春は字を子元といい、郴州の人。祖父の何俊は雲南按察司僉事、父の何說は刑部郎中。
- 孟春は少年のころ李東陽の門に遊び、学問は該博であった。𢎞治六年(1493年)の進士に及第し、兵部主事を授かった。言官の龎泮らが獄に下されると疏を上って救った。
- 萬歳山の毓秀亭・乾清宮西室を造る詔が下り、軍九千人を役し費用は百余万と見積もられたとき、抗疏して極諫した。清寧宮が火災に遭うと八事を陳べ、疏は一万余言に及んだ。
- 員外郎・郎中に進み、出て陝西の馬政を理め、条目を張り尽くし、還って弊を釐める五事を上り、あわせて撫臣の不職を弾劾した。
- 正徳初、孔廟の祀典を釐正するよう請うたが行われなかった。出て河南參政となり、清廉公正で威があった。太僕少卿に抜擢され、進んで卿となった。車駕が宣府に幸したとき疏を馳せて諫めた。
- 右副都御史として雲南を巡撫し、十八寨の叛蛮阿勿・阿寺らを討ち平らげ、奏して永昌府を設け、五長官司・五守禦所を増やした。功を録して一子を廕されたが辞して受けなかった。
- 世宗が即位すると南京兵部右侍郎に遷り、道半ばで召されて吏部右侍郎となった。折しも蘇州・松江の諸府で旱と水害が相次ぎ、江淮の北で河水が大いに溢れて田廬・人畜を漂没させること数知れなかった。孟春は漢の魏相に倣って八事を条奏し、帝は嘉して納れた。まもなく左侍郎に進み、尚書喬宇が罷められると部事を代わって署した。
大礼の議
- 先に大礼の議が起こったとき、孟春は雲南にあってこれを聞き、上疏して言った。
- 臣が邸報を閲したところ、進士屈儒の奏中に、聖父を皇叔考興獻大王、聖母を皇叔母興獻大王妃と尊ぶよう請い、部に下して知らせよとの旨を得たとあった。まだ允可を奉じてはいないようである。
- 臣が思うに、前世の帝王が旁支から入って大統を奉じ、本生を推尊した得失の跡は史冊に載っている。宣帝は史皇孫に号を加えることを敢えてせず、光武は南頓君に号を加えることを敢えてせず、晉の元帝は恭王に号を加えることを敢えてしなかった。情を抑えて礼を守ったのであって、宋の司馬光のいわゆる「当時に美を帰し後世に聖を頌えられる」者である。哀帝・安帝・桓帝・霊帝はその父祖を追尊して義を犯し礼を侵した。司馬光のいわゆる「当時に譏りを取り後世に非とされる」者である。
- 儀禮の喪服に、人の後となる者について傳は「なぜ三年か。重を受けた者は必ず尊服をもってこれに服するからである」と言い、人の後となった者がその父母のために服する条について傳は「なぜ期か。二たび斬らないからである。大宗を重んずる者はその小宗を降すのである」と言う。父母は天下にこれより隆いものはないが、大宗を継ぐとなればその服を殺いで後嗣となった先の親に移す。名を二つにできないからである。人の後となる者はその子となり、あえて私親を顧みない。聖人が礼を制するに尊に二上なしとしたのは、恭敬の心が彼に分かれればこちらに専らにできないからである。
- 今、廷臣の詳議で事がなお決しないのは、「皇叔考」の称に当たらぬところがあるからではないか。臣は愚かながらも疑いを抱かずにいられない。礼に、生きているのを父母といい、死んだのを考妣という。世父母・叔父母という文はあるが、世叔考・世叔妣という説はない。今、興獻王を皇叔考と称そうとするのは、古典の何に拠るのか。宋の英宗のとき、濮王に皇伯考を加えるよう請う者があったが、宋敏求はその誤りを力めて斥けた。とすれば皇叔考の称をどうして興獻王に加えられようか。
- 皇叔父と称するのも義において安んじない。経書に伯父・叔父と称するのはいずれも生前の呼び方であって、没した後に親属の称を爵位の上に冠した例はない。とすれば皇叔父の称を、先朝すでに諡された親王に重ねて加えられようか。
- 臣が前の詔を伏して見るに、陛下は先皇帝を皇兄と称しておられる。誠に獻王に対して皇叔と称されれば、宋の王珪・司馬光の言うところの通りで、すでに満足すべきである。議者がそうしないのはなぜか。天下は太祖の天下である。太祖から伝わって孝宗に至り、孝宗はこれを先皇帝に伝え、先皇帝はとくに陛下を択んで大業を授けられた。獻王は陛下の天性の至親ではあるが、九重に光り臨み四海を富有し、子々孫々万世にわたって南面する所以は、みな先皇帝の徳であり孝宗の遺したものである。臣はゆえに漢の宣帝・光武、晉の元帝の三帝を法とされることを願う。もし古になく名の正しからぬ号であれば、臣が陛下に願うところではない、と。
- 孟春が吏部の官となったときには、すでに本生の父母を興獻帝・興國太后と尊び、続いて本生皇考恭穆獻皇帝・本生聖母章聖皇太后と改称していた。孟春は三たび疏を上って初めの詔に従うよう乞うたが、いずれも省みられなかった。
- そこで帝はいよいよ張璁・桂萼らの言を容れ、さらに「本生」の二字を去ろうとした。張璁はまさに気勢を盛んにして礼官の欺妄十三事を列挙して上り、あわせて朋党と斥けた。
- 孟春は九卿の秦金らとともに疏を具えて言った。伊尹は「言に心に逆らうものがあれば必ずこれを道に求め、言に志に順うものがあれば必ずこれを非道に求めよ」と言った。近ごろの大礼の議は邪正が同じでない。諸臣が匡し拂うこと累千万言に及ぶのは、いわゆる心に逆らう言である。陛下はこれを道に求められたことがあるか。一、二の小人が将順の説に託して、罷閑・不学無恥の徒を招き来たらせ聖聴を惑わせている。これがいわゆる志に順う言である。陛下はこれを非道に求められたことがあるか。なにゆえ彼の言は行われやすく、この言は入りがたいのか、と。そのうえで十三の難を発して張璁の疏を弁じ折った。疏が入ると留められた。
- そのころ詹事・翰林・給事中・御史および六部の諸司・大理・行人の諸臣が各々疏を具えて争ったが、いずれも留められて下されなかった。群情はいよいよ□□とした。
左順門の伏闕
- 朝が退けたところで、孟春は衆に向かって「憲宗の朝に百官が文華門で哭して慈懿皇太后の葬礼を争い、憲宗はこれに従った。これは国朝の故事である」と唱えた。修撰楊慎は「国家が士を養うこと百五十年、節を仗んで義に死ぬのはまさに今日である」と言った。編修王元正・給事中張翀らはそこで群臣を金水橋の南に遮り留め、「今日、力争しない者があれば必ず共にこれを撃つ」と言った。孟春・金獻民・徐文華がまた相呼びかけた。
- そこで跪伏した者は次の通りである。
- 九卿(二十三人)
- 尚書: 金献民・秦金・趙鑑・趙璜・俞琳
- 侍即: 何孟春・朱希周・劉玉
- 都御史: 王時中・張潤
- 寺卿: 汪舉・潘希曽・張九叙・呉祺
- 通政: 張瓚・陳霑
- 少卿: 徐文華・張縉・蘇民・金瓚
- 府丞: 張仲賢
- 通政參議: 葛禬
- 寺丞: 袁宗儒
- 翰林(二十二人)
- 掌詹事府侍即: 賈詠
- 學士: 豐熙
- 侍講: 張璧
- 修撰: 舒芬・楊維聰・姚淶・張衍慶
- 編修: 許成名・劉棟・張潮・崔桐・葉桂章・王三錫・余承勲・陸釴・王相・應良・王思
- 檢討: 金臯・林時
- および楊慎・王元正
- 給事中(二十一人)
- 張翀・劉濟・安磐・張漢卿・張原・謝蕡・毛玉・曹懷・張嵩・王瑄・張□・鄭一鵬・黄重・李錫・趙漢・陳時明・鄭自璧・裴紹宗・韓楷・黄臣・胡納
- 御史(三十人)
- 王時柯・余翺・葉竒・鄭本公・楊樞・劉潁・祁杲・杜民表・楊瑞・張英・劉謙亨・許中・陳克宅・譚纘・劉翀・張錄・郭希愈・蕭一中・張恂・倪宗嶽・王璜・沈敎・鍾卿宻・胡瓊・張濓・何鰲・張曰韜・藍田・張鵬翰・林有孚
- 諸司の即官
- 吏部(十二人): 即中 余寛・党承志・劉天民/員外即 馬理・徐一鳴・劉勲/主事 應大猷・李舜臣・馬冕・彭澤・張鵾/司務 洪伊
- 戸部(三十六人): 即中 黄待顯・唐昇・賈繼之・楊易・楊淮・胡宗明・栗登・党以平・何巖・馬朝卿/員外即 申良・鄭漳・顧可乆・婁志徳/主事 徐嵩・張庠・髙奎・安壐・王尚志・朱藻・黄一道・陳儒・陳騰鸞・髙登・程旦・尹嗣忠・郭日休・李錄・周詔・戴亢・繆宗周・邱其仁・爼琚・張希尹/司務 金中夫/檢校 丁律
- 禮部(十二人): 即中 余才・汪必東・張□・張懷/員外即 翁□・李文中・張澯/主事 張鏜・豐坊・仵瑜・丁汝䕫・臧應奎
- 兵部(二十人): 即中 陶滋・賀縉・姚汝臯・劉淑相・萬潮/員外即 劉漳・楊儀・王徳明/主事 汪溱・黄嘉賓・李春芳・盧襄・華鑰・鄭曉・劉一正・郭持平・余禎・陳賞/司務 李可登・劉從學
- 刑部(二十七人): 即中 相世芳・張峩・詹潮・胡璉・范錄・陳力・張大輸・葉應驄・白轍・許路/員外即 戴欽・張儉・劉士竒/主事 祁敕・趙廷松・熊宇・何鰲・楊濓・劉仕・蕭樟・顧鐸・王國光・汪嘉㑹・殷承叙・陸銓・錢鐸・方一蘭
- 工部(十五人): 即中 趙儒・葉寛・張子衷・汪登・劉璣・江珊/員外即 金廷瑞・范鏓・龎淳/主事 伍餘福・張鳯來・張羽・車純・蔣珙・鄭騮
- 大理の属(十一人): 寺正 母徳純・蔣同仁/寺副 王暐・劉道/評事 陳大綱・鍾雲瑞・王光濟・張徽・王天民・鄭重・杜鸞
- 以上がみな左順門に跪伏した。帝は司禮の中官に命じて退くよう諭させたが、衆はみな「允可の旨を得てこそ退けます」と言った。辰の刻から午に至り、二度諭を伝えても、なお跪伏して起たなかった。
- 帝は大いに怒り、錦衣を遣わしてまず首謀者を捕らえさせた。そこで豐熙・張翀・余翺・余寛・黄待顯・陶滋・相世芳・母徳純の八人がともに詔獄に繋がれた。楊慎・王元正は門を揺すって大いに哭き、衆もみな哭いて声は闕廷を震わせた。
- 帝はいよいよ怒り、四品以下の官若干人を収繋するよう命じ、孟春らには罪を待たせた。翌日、編修王相ら十八人がみな杖されて死に、豐熙らおよび楊慎・王元正はみな謫戍された。
- そこでようやく孟春らの前の疏を下して責めた。朕は大統を嗣ぎ承け、恭しく宗廟を奉じており、大礼を尊崇することは朕の心から出たものである。孟春らは君を毀ち政を害し、是非を変乱している。しかも張璁らの上った十三条はまだ留められて発せられていないのに、どうして先に知り得たのか。実をもって答えよ、と。
- そこで孟春らは疏を具えて罪に伏し、張璁らが条陳したものは、まだ進める前に私かに草稿を人に示し、しかも副本が通政司に存していたので臣らは知ったのである。臣らは忝くも大臣の末に従い、議礼の末席に与った。ひそかに張璁らの欺罔を思ってあえて論弁し、天聴を瀆した。罪は万死に当たる。ただ聖明が察を加え、いずれが正でいずれが邪かを弁じてくださるなら、臣らは死んでも幸いである、と述べた。
- 帝の怒りは止まず、孟春が衆を煽って忿りを逞しくしたのは大臣が君に事える道ではなく、法では重く治めるべきだが、ひとまず軽きに従うとして、俸一月を奪った。
- まもなく出て南京工部左侍即とされた。故事では南部の侍即は一人だけであるが、当時すでに右侍即張琮がおり、あらためて孟春を左としたのは余剰の員であった。
- 孟春はしばしば疏を上って病を理由に辞し、嘉靖六年(1527年)春にようやく聴き入れられた。明倫大典が成るとその籍を削られ、久しくして家で卒した。隆慶初に禮部尚書を贈られ、文簡と諡された。
- 孟春の住まいには泉があり、燕の去来に応じて満ち涸れることから名を得て、燕泉先生と称された。