明史卷一百九十一 列傳第七十九 朱希周

出自と歴官

  • 朱希周は字を懋忠といい、崑山の人。吳縣に移った。高祖の朱吉は戸部給事中、父の朱文は雲南按察副使。
  • 希周は𢎞治九年(1496年)の進士に及第した。孝宗はその姓名を喜んで第一に抜擢し、修撰を授けた。侍講に進み經筵講官を務めた。劉瑾が會典修纂の小さな瑕をあげつらって修撰に降した。孝宗實錄が成ると官に復した。
  • 久しくして侍讀學士に進み、南京吏部右侍即に抜擢された。五年を閲して召されて禮部右侍即となった。
  • 当時ちょうど大礼が議されており、しばしばその長官とともに争い執った。折しも左侍即吳一鵬が安陸に使いし、尚書席書が着任していなかったので、希周ひとりが部事を理めた。

観徳殿の楽舞と左順門の伏闕

  • 帝が観徳殿を営み、恊律即崔元に大内で舞生を初めて習わせるよう命じた。太常卿汪舉がこれを弾劾すると、帝は太常の官一人を同じく内に入れて教習させることとした。希周は上言して、太常の楽舞には定数があり、さらに設けるべきでないと述べた。帝は従わず、汪舉が重ねて争うと妄議と責めた。
  • このとき張璁・桂萼がすでに召されて到着し、いよいよ相次いで章を上って「本生」の号を去るよう請うた。帝は悦んでこれに従い、禮官に冊の儀を具えて上るよう促した。
  • 希周は即中余才・汪必東らを率いて疏を上って諫めた。陛下が孝宗を考とし昭聖を母とされて三年になる。しかるに更定の論がにわかに中から出ては、明詔は虚文となって天下に信ぜられず、祭告は礼を瀆すこととなって何によって神祇を感ぜしめようか。しかも「本生」は貶める言葉ではない。正統を妨げずして親しむ義がそこに寓されている。何を嫌ってこれを必ず去り、天下の議を滋らせようとされるのか、と。
  • 当時、諫める群臣は甚だ多かったが、疏はみな留められた。そこで相率いて左順門に詣って跪伏した。希周は走って諸閣臣に告げ、「群臣が闕に伏している。公らは坐視できるのか」と言い、自らも群臣とともに跪伏して請うた。
  • 帝は聞いて大いに怒り、希周と何孟春らに罪を待たせ、庶僚をことごとく詔獄に繋いだ。
  • 翌日、章聖皇太后に冊文を上るにあたり、希周および尚書秦金・金獻民・趙鑑・趙璜、侍郎何孟春、都御史王時中、大理少卿張縉・徐文華がみな赴かなかった。帝は怒って状を陳べるよう責め、希周らは罪に伏したが、あらためて厳旨で譙責してやんだ。
  • このとき獄に繋がれた庶僚はまだ釈されていなかった。希周は上言して、諸臣の狂率はもとより宥すべきでないが、今、獻皇帝の神主が到着しようとしており、必ず百官が斎して迎えてこそ礼が成る。早く縲絏を寛くして大典を助けられたい、と述べた。納れられなかった。大礼はこうしてここに定まった。

南京吏部尚書と致仕

  • その翌年、左侍郎から南京吏部尚書に遷った。
  • 嘉靖六年(1527年)、京官の大計で南京の六科に黜けられた者がなかった。桂萼はかねて議礼のことで希周を恨んでおり、また両京の言官が自分を弾劾したことを憎んでいたので、希周が勢いを畏れて曲庇したと言った。
  • 希周は言った。南京の六科はわずか七人で、実に去らせるべき者がない。臣が言路であるがゆえに私するのはもとより不可であるが、言路への嫌疑を避けるために誅責するのはさらに不可である。しかも一曹こぞって賢であっても必ず一、二人を去らせて公を示すべきなのか。一曹こぞって不肖であってもただ一、二人を去らせて責を塞げばよいのか、と。あわせて力めて病を称して休を乞うた。温旨で許され、なお有司に命じて歳ごとに夫・廩を給させた。
  • 林野に居ること三十年、内外で論薦する者は三十余疏に及んだが、ついに再び起たなかった。性は恭謹で妄りに取り与えしなかった。卒したとき年八十四。太子少保を贈られた。
  • 死に臨んで諸子に「他日もし易名の典を蒙ったら、我が家の諱を犯すな」と言い遺した。そこで「文」の字を避けて恭靖と諡された。