明史卷一百九十一 列傳第七十九 吳一鵬

出自と歴官

  • 吳一鵬は字を南夫といい、長洲の人。𢎞年六年(弘治六年、1493年)の進士に及第し、庶吉士に選ばれて編修を授かった。戸部尚書周經が讒言で去ったとき、上疏してその留任を乞うた。
  • 正徳初に侍講に進み、經筵講官を務めた。劉瑾が諸翰林を部曹に出したとき、一鵬は南京刑部員外即を得、禮部即中に遷った。劉瑾が誅されると侍講に復し、侍講學士に進み、國子祭酒・太常卿を歴たが、いずれも南京での職であった。母の喪を終えると故官に起こされた。
  • 世宗が践阼すると召されて禮部右侍即を拝し、まもなく左に転じた。しばしば尚書毛澄・汪俊とともに大礼を力争した。

献帝廟をめぐる争いと神主の迎接

  • 汪俊が国を去ると一鵬が部事を署した。帝が獻帝の廟を建てるよう甚だ急に促したので、一鵬は廷臣を集めて議を上った。
  • その趣旨は次の通り。前世の入継の君に、本生のために園陵や京師に廟を立てた例が間々あるが、それも歳時に官を遣わして祀らせるだけで、まもなく奏して罷めており、それでも当時に非とされ後代に議された。まして大内に廟を立てて親ら享するなどは、古来あったためしがない。臣らはむしろ陛下に罪を得ても、陛下が天下後世に礼を失われることを望まない。
  • 今、張璁・桂萼の言に「統を継ぐのは公、後嗣を立てるのは私」と言い、また「統は重く嗣は軽い」と言う。ひそかに思うに、正統の伝わるところを宗といい、ゆえに宗を立てるのは統を継ぐためであり、嗣を立てるのは宗を承けるためである。統と宗とにもともと軽重はない。まして我が朝の子に伝える世にあって、堯舜の賢に伝える例に倣おうとするのは、比類が当たらない。
  • また「孝であるかどうかは皇と称するか否かにあるのではなく、考と称するか否かにある」と言い、そこで孝宗を皇伯考と改称しようとする。臣らが前古を歴稽するに、神主を皇伯考と称した例はない。ただ天子が諸王を伯父・叔父と称することはあるが、宗廟に加えられるものではない。これまで本生皇考と称したのは実に聖心から裁されたものであるのに、臣らが「皇」の一字を留めて陛下を覘ったなどと言い、また「皇の字が百あっても父子の名には当たらない」と言う。なにゆえ憚りなく言い放つことここに至るのか。
  • 速やかに室を建てる議を罷め、安陸に廟を立て、張璁・桂萼らを法司に下して按治されたい、と。
  • 帝は答えて言った。朕は親藩から起こって宗祀を奉じており、どうして違い越えることを敢えてしよう。ただ本生皇考の寝園は遠く安陸にある。卿らはそれで安んじられるのか。命を下すこと再四に及ぶのに、爾らは朕の幼年を欺いて党を同じくし違背を執り、父子の情を敗り君臣の義を傷つけている。ひとまず問わぬこととする。奉先殿の西室を速やかに修葺し、朕の歳時追遠の情を尽くさせよ、と。嘉靖三年(1524年)四月のことである。
  • ほどなく一鵬は四方の災異を極めて陳べた。去年六月から今年二月までの間に、天が鳴ること三度、地震三十八度、秋冬の雷電・雨雹十八度、暴風・白気・地裂・山崩・産妖が各一度、民が飢えて相食むこと二度。異常の変が往時の倍である。陛下が群臣に率先して疾苦を救い、営繕を罷め、大臣を信じ、忠諫を納れて天意を回されるよう願う、と述べた。帝は優詔でこれに答えた。
  • 一月を越えて、手勅で奉先殿西室を観徳殿と名づけ、一鵬に中官頼義・京山侯崔元とともに獻帝の神主を安陸に迎えに行くよう命じた。
  • 一鵬らはまた上言した。前史を歴考しても、寝から園主を迎えて大内に入れた例はない。これは天下後世の観瞻に関わることで、些細な事ではない。しかも安陸は恭穆が封を啓かれた疆であって神霊の恋うところであり、また陛下の龍興の地で王気の鍾まるところである。ゆえに我が太祖は中都を重んじ、太宗は留都を重んじ、いずれも王業の基づくところとして永く世祀を修めた。伏して乞う、群言を納れ、神主を改題して故宮に奉安し百世不遷とし、観徳殿の中には別に神位・香几を設けて孝思を慰められれば、本生の情は隆く、正統の義もまた尽くされる、と。奏が入ったが納れられなかった。
  • 一鵬はそこで出発した。使者が道中で害をなすことを慮り、疏を上って禁約を請うた。帝はその言を善しとして戒飭した。
  • 還朝したときには廷臣がすでに闕に伏して哭き争い、朝事は大きく変わっていた。給事中陳洸の妄言はとりわけ甚だしかった。一鵬は抗疏して言った。大礼の議は聖心から断ぜられ、正統と本生は昭然として紊れていない。しかるに陳洸は、陛下は孝宗の没後三年に誕生され、武宗の没後二月に位を嗣がれたのだから授受のしようがないなどと妄りに言う。その説はとりわけ不経である。謹んで按ずるに、春秋は命を受けることを正始とする。ゆえに魯の隠公は上に承けるところなく内に受けるところがないので即位を書かない。今、陛下は武宗の遺詔を承け昭聖の懿旨を奉じておられ、まさに春秋の義に合う。しかるに陳洸は誰から授受したかと言う。これは陛下を正始を得ていないとするものである。陳洸はもとより小人であって、痛く懲らしめなければ、これに倣う風潮を杜ぐことができない、と。聴かれなかった。
  • その年九月、一鵬は本官のまま内閣に入り、専ら誥敕を典り、詹事府の事を兼ね掌った。武宗實録が成ると尚書に進み、職を領すること元の通りであった。まもなく墓参のため帰り、還朝してなお誥敕を典り、ほどなく出て部事を理めた。
  • これ以前、内閣で誥敕を典った者はみな順に政柄を執ったが、張璁・桂萼が新たに事を用い、かねて一鵬が自分と異なることを恨んでいたため、南京吏部尚書に出された。太子少保を加えられた。二年居って、南京の官が王瓊ら諸大臣を不職として刻し、一鵬もこれに与った。そこで致仕を乞い、廩を故事の通り給された。
  • 卒すると太子太保を贈られ、文端と諡された。子の吳子孝は湖廣參政。