明史卷一百九十一 列傳第七十九 毛澄
毛澄(字は憲清、?–1523年)は崑山の人。𢎞治六年に状元で及第し、東宮で武宗に直講した。正徳十二年に禮部尚書となり、武宗の微行・宣府への長期滞在・「威武大將軍朱夀」名義の巡辺と東嶽奉安をたびたび廷臣とともに諫めた。武宗の崩後は梁儲らと安陸へ世宗を迎えに行き、大礼の議では礼官の首として漢の定陶王・宋の濮王の故事に拠り、孝宗を皇考、興獻王を皇叔父興獻大王と称すべしと三度にわたって会議の議を上げた。世宗が中官に金を持たせて議を改めさせようとしたときも「典礼を毀つことはできない」と拒み、五、六度辞職を求めて嘉靖二年二月にようやく許され、帰途の舟中、興濟で卒した。少傅を贈られ文簡と諡された。
年表(7件)
- 𢎞治六年1493年進士第一に及第し修撰を授かる
- 正徳四年1509年劉瑾が㑹典の瑕をあげつらい、纂修者として侍讀に貶される
- 正徳十二年1517年五月に禮部尚書を拝する
- 正徳十二年1517年八月の帝の微行に還宮を請い、居庸を出た帝に諫疏を重ねる
- 正徳十四年1519年二月、朱夀を両畿に遣わし東嶽を瞻せる諭に五つの不可を陳べる
- 嘉靖と改元した正月1522年清寧宮後の三小宮の火災を機に諫め、「皇帝」加称は止む
- 嘉靖二年1523年二月に致仕を許され、帰途の興濟で卒する
篇首の立伝者一覧
- 毛澄
- 汪俊(弟の汪偉を附伝とする)
- 吳一鵬
- 朱希周
- 何孟春
- 豐熈(子の豐坊を附伝とする)
- 徐文華
- 薛蕙(胡侍・侯廷訓・王祿を附伝とする)
出自と歴官
- 毛澄は字を憲清といい、崑山の人。𢎞治六年(1493年)の進士第一に及第し、修撰を授かった。㑹典の修纂に参与し、成ると右諭徳に進んで東宮で直講した。
- 武宗が太子であったとき、澄の進講が明晰であることを帝に称えた。帝は大いに喜び、折しも秋の夜に宴を設けていたが、そのまま撤して武宗に賜った。
- 武宗が立つと左庶子に進み經筵に直したが、母の喪で帰った。正徳四年(1509年)、劉瑾が㑹典の小さな瑕をあげつらって纂修者たちの秩を貶したため、澄は侍讀とされた。喪が明けて還朝すると侍讀學士に進み、さらに學士に進んで院事を掌り、禮部侍即を歴て、正徳十二年(1517年)五月に尚書を拝した。
武宗の巡幸を諫める
- その年八月朔、帝が微行した。澄は侍即王瓚・顧清らを率いて疏を上って還宮を請うた。ついで帝は居庸を出て宣府に幸し、久しく留まって返らなかった。澄らはしきりに疏を上って諫めたが悉く返答がなかった。
- 翌年正月、車駕が旋ると、百官に戎服で郊迎するよう命じた。澄らは常服を用いるよう請うたが許されなかった。
- 七月、帝は自ら威武大將軍朱夀と称して六師を統べ辺を巡り、宣府に幸して大同に至り、山西を歴て榆林に至った。澄らはしばしば疏を馳せて諫め、十二月にはまた廷臣とともに上疏した。
- その趣旨は次の通り。去年正月以来、鑾輿は何度も出て安んじて居られず、今度の行幸もすでに半年になる。宗廟社稷の享祀の礼はいずれも代理で行われ、萬夀・正旦・冬至の朝賀の儀はことごとく簡略にされ、臘朔の省牲は欠けて行われぬまま二年になる。年が改まろうとして郊禋の日もすでにトされた。皇祖の訓に「およそ天地を祀るには、精誠であれば感格し、怠慢であれば禍が生ずる」とある。今、六龍は遠く馳せて還る日がない。万一氷雪に阻まれて道が塞がり、元正の上日に自ら玉帛を上帝の前に執ることができなければ、陛下はいかにして自ら安んじられるか。しかも辺地は荒れ寒く、隆冬はとりわけ甚だしい。臣らは重城に処り厚禄を食みながら、聖体の労頓と根本の空虚を思い、遥かに清塵を望んで憂心は酔うが如くである。速やかに駕を促して還り、自ら祼享に臨まれれば宗社臣民の幸いである、と。返答はなかった。
- 正徳十四年(1519年)二月、車駕が京に還ったばかりのところへ、禮部に「總督軍務威武大將軍總兵官太師鎮國公朱夀を両畿に遣わして東嶽を瞻せ、聖像を奉安して福を祈り民を安んじさせよ」と諭した。澄らは驚き、また廷臣とともに上言した。
- その趣旨は次の通り。陛下は天地の子として祖宗の業を承け、九州四海はただ陛下に皇帝の号があることを知るのみである。今「總督軍務威武大將軍太師鎮國公」と言われても、臣らは何を指すのか分からない。この旨を出したのも陛下、この号を加えたのも陛下であって、この号を受ける者が誰なのか分からない。もし皇儲が立てられていないので名山大川に遍く告げて黙助を祈ろうとされるなら、使者を遣わして幣を走らせれば敬意は足りる。なにゆえ自ら神像を奉じ宝香を献ずるという仏老のような行いをされるのか、と。あわせて五つの不可を歴陳したが、これも返答はなかった。
- 宸濠が江西で反すると、帝は南征して威武を示し、留都に駐蹕すること一年を越えた。澄はしばしば回鑾を請うた。車駕が通州に返ると、江彬の言を用いてただちに宸濠に死を賜おうとした。澄は漢の庶人(高煦)の故事に拠って、京に還って郊廟に告げ、俘を献じてから戮を行うよう請うたが、従われなかった。
- 中官王堂が浙江に鎮して生祠を建てたいと請い、西番の闡化王の使者が額外に茶九万斤を賜るよう乞うたが、澄はいずれも力争した。聴かれなかった。
- 王瓊が彭澤を陥れようとしたとき、澄ひとりがその無罪を明らかにした。
世宗の迎立と大礼の議
- 武宗が崩じ、廷議で世宗を立てることになると、澄は大學士梁儲・夀寜侯張鶴齡・駙馬崔元らとともに安陸に迎えに往った。到着して謁見するにあたり、天子の礼を用いるべきだと議する者があった。澄は「今すでにこうするなら、後に何を加えるのか。勧進・辞譲の礼をそのまま廃してよいのか」と言った。
- 世宗が践阼してわずか六日、興獻王の主祀および尊称を議せよとの旨が下った。五月七日戊午、澄は文武の群臣を大いに会して議を上った。
- その趣旨は次の通り。漢の成帝は定陶王を皇太子に立て、楚孝王の孫の劉景を定陶王に立てて共王の祀を奉じさせた。共王は皇太子の本生父である。当時、大司空師丹は恩義が備わり尽くしていると評した。今、陛下は入って大統を承けられたのだから、定陶王の故事の通り、益王の第二子崇仁王厚炫を興王の後嗣として襲封させ、主祀の事に当たらせるべきである。
- また宋の濮安懿王の子が入って仁宗の後を継いだのが英宗である。司馬光は濮王を高官大爵で尊び、王伯と称して名を呼ばぬがよいと言い、范鎮も「陛下がすでに仁宗を考とされた以上、さらに濮王を考とするのは義に当たらない」と言った。そこで濮王の園廟を立て、宗樸を濮國公として濮王の祀を奉じさせた。程頤の言に「人の後となる者は、後嗣となった先を父母とし、生みの親を伯叔父母とする。これが生人の大倫である。しかし生みの親の義は至尊至大であるから、別に特別の称を立てて皇伯叔父某國大王とすれば、正統は明らかになり生みの親の尊崇も極まる」とある。
- 今、興獻王は孝宗にとっては弟、陛下にとっては本生父であり、濮安懿王の事とまさに相等しい。陛下は孝宗を皇考と称し、興獻王を皇叔父興獻大王、妃を皇叔母興獻王妃と改称し、興獻王に祭告し妃に箋を上るときはいずれも姪皇帝某と自称されるべきである。そうすれば正統と私親、恩と礼がともに尽くされ、万世の法とすることができる、と。
- 議が上ると帝は怒り、「父母をこのように取り替えてよいのか」と言って再議を命じた。
- その月二十四日乙亥、澄はまた廷臣を会して議を上った。
- その趣旨は次の通り。礼に、人の後となる者はその子となるとあり、天子から庶人まで同じである。興獻王の子は陛下ただ一人であるが、すでに入って大統を継ぎ宗廟の祀を奉じておられる。ゆえに臣らは先に崇仁王厚炫に興獻王の祀を主らせようと議した。称号については、陛下は皇叔父興獻大王と称し、自らは姪皇帝某と名を称されるべきで、宋の程頤の説が拠るべきである。本朝の制では、皇帝は宗藩の尊行に対して伯父・叔父と称するにとどめ、自らは皇帝と称して名を言わない。今、興獻王を皇叔父大王と称し、さらに自ら名を称されるのだから、尊崇の典はすでに至れり尽くせりである。臣らは重ねて議すべきことがない、と。あわせて程頤が彭思永に代わって濮王の礼を議した疏を録して進覧した。
- 帝は従わず、前代の典礼を広く考えて再議して上聞するよう命じた。澄はまた廷臣を会して議を上った。
- その趣旨は次の通り。臣らが再度会議して興獻王を叔父と改称するよう請うたのは、大統の尊が二つないことを明らかにするためである。しかも叔父の上に「皇」の字を加えれば、陛下の伯叔諸父はみなこれと肩を並べられなくなる。王の上に「大」の字を加えれば、天下の諸王はみなこれと並べなくなる。興獻王の称号が定まれば王妃の称号もこれに随い、天下の王妃もその尊さに及ばなくなる。まして陛下は天下をもって養い、その心を楽しませ、その志に違わない。一家一国の養と同日に語れようか。これこそ孔子のいわゆる「礼をもってこれに事える」である。その他の推尊の説や称親の議は非礼であろう。推尊の非は魏の明帝の詔に最も詳しく、称親の非は宋の程頤の議に最も詳しい。至当の礼はこれを出るものではない、と。あわせて魏の明帝の詔書を録して上った。
- このとき帝は生みの親を推崇しようと鋭意しており、進士張璁がまた抗疏して礼官の誤りを極言した。帝は心を動かし、澄らの疏を留めて久しく下さなかった。
- 八月庚辰朔に至って、再び集議を命じた。澄らはまた議を上って言った。先王が礼を制するのは人情に本づく。武宗には子の嗣がなく兄弟も少なく、憲廟の諸孫の中から陛下を援け立てた。これは武宗が陛下を同堂の弟としたのであって、孝宗を考とし慈夀を母とすることに疑いはない。どうして私親を顧みられようか、と。疏が入ると帝は喜ばず、また留めて下さなかった。
- 折しも給事中邢寰が憲廟の皇妃邵氏の徽号を議するよう請うた。澄は上言して、王妃は獻王を生んだ方で、実に陛下の出自であるが、すでに大統を承けられた以上、孝宗を考とし慈夀太后を母とすべきである。孝宗が憲廟の皇妃を皇太妃と称すべきであるなら、陛下においては太皇太妃と称すべきである。そうすれば彝倫が正され、恩義もまた篤い、と述べた。疏が入ると聞き置くとの返答があった。
- その月、帝は母妃が到着するにあたり礼官にその儀を議させた。澄らは崇文門から入って東安門に入るよう請うたが、帝は不可とした。そこで正陽左門から入って大明東門に入るよう議したが、帝はまた不可とした。澄らが初めの議を執ると、帝は自ら儀を定め、ことごとく中門から入らせた。
- 当時、尊崇の礼はなお定まらず、張璁がまた大禮或問を進めたので帝はいよいよそちらに傾いた。九月末になって澄らの前の疏を下し、あらためて広く輿論を採って上聞するよう命じた。澄らは勢いがもはや止められないと知り、内閣と謀って、興王に帝、妃に后の称を加え、これを皇太后の懿旨によって行うこととした。そこで疏を上って、臣らの一得の愚見は前の議に尽くされている。今、聖心を仰いで慰め、今に宜しくして情に戻らず、古に合って義に悖らぬようにするには、密勿股肱の臣がおられる。臣ら有司が擅に任ずるわけにはいかない、と言った。
- 帝はそこで十月二日庚辰、慈夀皇太后の旨をもって興獻王に興獻帝、妃に興國太后の号を加え、皇妃邵氏もまた皇太后と尊んで内外に宣示した。しかし帝は廷議に勉めて従ったものの、内心はなお満たされなかった。
- 十二月十一日己丑、あらためて「皇帝」と加称するよう伝諭した。内閣の楊廷和らは御批を封じ返し、澄は抗疏して力争し、また九卿の喬宇らとともに合わせて諫めたが、帝はいずれも允さなかった。
- 翌年、嘉靖と改元した正月(1522年)、清寧宮の後ろの三小宮が火災に遭った。澄はまたこれを言い、朝臣にも諫める者が多かったので、事は止んだ。
致仕と卒去
- 澄は端亮で学行があり、事を論ずるに侃々として撓まなかった。帝が生みの親を推尊しようとして中官を遣わし意を諭させたとき、その中官が長く跪いて稽首した。澄は驚いて急ぎ扶け起こしたが、その者は「上意です。上は『人に誰か父母がない者があろうか。なぜ私に伸べさせてくれないのか。必ず公に議を改めてもらいたい』と仰せです」と言い、嚢から金を出して澄に与えようとした。澄は奮然として「老臣は耄碌したとはいえ典礼を毀つことはできない。ただ去って議に与らぬだけだ」と言った。
- 抗疏して病を理由に辞することが五、六度に及んだが、帝はそのつど慰留して允さなかった。嘉靖二年(1523年)二月、病が篤くなって重ねて力めて請い、ようやく許された。舟が興濟に至って卒した。
- 先に定策の功を論じて澄に太子太傅を加え、錦衣衛世襲指揮同知を廕したが、力めて辞して受けなかった。帝はつねに澄を敬い憚り、しばしば旨に忤らったにもかかわらず恩礼は衰えなかった。病を得ると医を遣わして診させ、薬物の賜が時に至った。その卒に際しては深く悼み惜しみ、少傅を贈り文簡と諡した。