明史卷一百九十 列傳第七十八 石珤
石珤(字は邦彦、?–1528年)は稾城の人。山西按察使石玉の子で、兄の石玠とともに成化末年の進士。両京の祭酒を歴て禮部尚書・吏部尚書となり、剛直方正で請託を謝絶したため銓政を刷新したが、楊廷和に疎まれて二箇月で詹事府に移された。嘉靖三年に入閣し、大礼の議では獻帝を祀る別室の造営、世廟の輦道のための神宮監取り壊し、章聖皇太后の世廟謁見にいずれも抗疏して反対し、張璁・桂蕚の議を「容悦の佞臣」と斥けて世宗の怒りを買った。のち王邦竒の誣告を機に致仕を乞うたが、恩典を一切与えられず、襆被と車一輛だけで都を去った。嘉靖七年冬に卒し、文隠と諡され、隆慶初に文介と改諡された。
年表(6件)
- 正徳の改元1506年南京侍讀學士に抜擢される
- 正徳十六年1521年禮部尚書を拝し詹事府を掌る
- 嘉靖元年1522年闕里および東嶽の祭祀に遣わされ、のち致仕を乞う
- 嘉靖三年1524年吏部尚書兼文淵閣大學士として機務に参ずる
- 嘉靖七年1528年冬に卒し、文隠と諡される
- 正徳十年1515年兄の石玠が戸部尚書を拝し、中官らの利権の請いを退ける
出自と歴官
- 石珤は字を邦彦といい、稾城の人。父の石玉は山西按察使。珤は兄の石玠とともに成化末年の進士に及第し、庶吉士に改められて簡討を授かった。たびたび病を理由に家に居り、孝宗の末になってようやく修撰に進んだ。
- 正徳の改元(1506年)に南京侍讀學士に抜擢され、両京の祭酒を歴て南京吏部右侍郎に遷り、召されて戸部に改められ左侍郎に進んだ。
- 武宗が宣府に遊び始めたとき、珤は疏を具えて力めて諫めたが返答はなかった。掌翰林院事に改められた。廷臣が南巡を諫めて禍が測りがたくなったとき、珤は疏を上って救った。
- 正徳十六年(1521年)、禮部尚書を拝し詹事府を掌った。
- 世宗が立つと、王瓊に代わって吏部尚書となった。小人どもが柄を窃んで以来、銓政は混濁していたが、珤は剛直方正で請託を謝絶し、清議に触れた者は多く黜けられた。時望は大いに孚したが、内閣の楊廷和は悦ばず、わずか二箇月でまた詹事府を掌り誥勅を司る職に改められた。
- 嘉靖元年(1522年)、闕里および東嶽の祭祀に遣わされ、事が終わると家に還り、しきりに致仕を乞うた。言官は珤の望が重いとして相次いで留任を請い、そこで起って事に視した。
入閣と大礼の議
- 嘉靖三年(1524年)五月、吏部尚書兼文淵閣大學士として機務に参ずるよう詔が下った。
- 帝が奉先殿の側に別に一室を建てて獻帝を祀ろうとすると、珤は抗疏してその非礼を言った。廷臣が闕に伏して哭き争ったときも、珤は毛紀とともにこれを助けた。
- ほどなく大礼の議が定まり、毛紀が位を去ると、珤はさらに諫めて言った。大礼の一事はすでに宸断を奉じており申し上げることはない。しかし臣が反覆して思うに、ついに心に安んじないものがある。心に安んじないところを言わず、忤ることを恐れて言い尽くさぬなら、陛下は臣を何に用いられよう。臣もまた何をもって君父に報いよう。孝宗皇帝と昭聖皇太后は陛下の骨肉の至親である。今、疎賤な讒佞の小人に離間を行わせておられる。彼らはただ迎合して寵を取ることを知るのみで、陛下のために体察しようとしない。この孟冬の時享が近い。陛下が登って献じ、親しく見えるが如くに対越されるとき、心中いささかも動かぬことがあろうか。亡き者に事えるのは生ける者に事えるが如くである。陛下は列聖の統を承け、百神を総べ万方に臨まれる。どうして慎重を加えず、細人の説を聴いて易えるべからざる典を犯されようか、と。
- 帝は奏を得て悦ばず、二度と言うなと戒めた。
世廟の建設と太后の謁廟に反対する
- 翌年、世廟を太廟の東に建てた。帝は何淵の言に従って神宮監を毀ち林木を伐って輦道を通そうとした。給事中韓楷、御史楊秦・葉忠らが相次いで諫めて旨に忤らい俸を奪われ、給事中衛道が続いて言うと秩を貶されて外に出された。珤もまた抗章して不可を極言したが聴かれなかった。
- 世廟が成ると、帝は章聖皇太后を奉じて謁見させようとし、張璁・桂蕚が力めてこれを主張した。禮官劉龍らが争ったが容れられず、諸輔臣もこれを言ったが帝は返答せず、儀を具えるよう促した。
- 珤はそこで上疏して言った。陛下が皇太后を奉じて世廟に謁見させようとされることについて、臣が思うに、令に従うのはもとより孝ではあるが、令に従うより大きな孝がある。臣は誠に阿諛して君上を誤らせることはできない。ひそかに思うに、祖宗の家法では、后妃はひとたび宮に入れば、故なくして再び出た例がない。しかも太廟は尊厳であって、時享・祫祭でなければ天子でさえ軽々に入らない。まして后妃においてをや。
- さらに続けて言った。張璁らの引く廟見の礼とは今の奉先殿のことであり、聖祖・神宗が行って百五十年、すでに定制となっている。その間に后を納れ妃を納れたことは幾度あったか知れないが、敢えて議に及んだ者はいない。何ゆえ今日にわかにこの議を唱えるのか。彼の容悦の佞臣に忠愛の実があろうか。それを陛下は聴こうとされるのか。また陰陽には定まった位があり、侵し越えてはならない。陛下は天地百神の主であられる。母后を故なくして太廟の街門を出入りさせるのは、坤が乾の事を行い陰が陽の位を侵すことであって、不可なることの最も大きなものである。臣とて君命を承けるべきことを知らぬではないが、上は聖徳を累わすことを恐れる。ゆえに敢えて旨に順い曲げて従い、君父の過ちを成し天地の徳に背くことはできない、と。
- 奏が入ると帝は大いに怒った。
罷免と評価
- 珤は人となり清介端亮で、孜々として国に奉じ、しばしば「王道を力行し、心を清らかにして事を省き、忠邪を弁じ、寛大を敦くし、目先の効を急ぐな」と帝に言った。帝はこれを迂遠と見て善しとしなかった。
- 大礼の議のとき、帝はしばしば珤を援いて自らを助けさせようとしたが、珤は礼に拠って争い、持論が堅固であったので帝の意を失った。張璁・桂蕚らもまた悦ばなかった。張璁・桂蕚は朝夕に輔政を謀り、費宏を攻撃しない日はなかったが、珤は行いが高く加えるべき瑕がなかった。
- 翌年の春に至り、奸人王邦竒が楊廷和を訐き、珤および費宏を奸党と誣告した。二人はそこで帰ることを乞うた。帝は費宏には駅伝を許したが、珤には朝廷を怨んで大臣の誼を失ったと責め、一切の恩典を与えなかった。帰りの荷は襆被と車一輛だけであった。都の人々は嘆じて異とし、これまで宰臣が国を去るのに珤ほどの者はなかったと言った。
- 珤および楊廷和・蔣冕・毛紀が強諫によって政を罷めてから、嘉靖の末まで、密勿の大臣で逆耳の言を進める者はいなくなった。
- 珤の加官は太子太保から少保に至った。嘉靖七年(1528年)冬に卒し、文隠と諡された。隆慶初に文介と改諡された。
石玠――附伝
- 石玠は字を邦竒という。宏治中、汜水知縣から召されて御史となった。出て大同の軍儲を調べ、丼州および陝西を按じ、条上した辺務はいずれも機宜に中り、都御史戴珊に信任された。かつて災異に因んで南京刑部尚書翟瑄以下二十七人を弾劾した。
- 正徳中に累進して右副都御史となり、大同を巡撫し、召されて兵部右侍郎を拝した。
- 海西の部長がしばしば辺を犯し、泰寧の三衛は他部と攻め合って久しく貢市を欠いていた。玠を左侍郎兼僉都御史として遼東に往かせ巡視させた。関を出て撫諭すると、みな約束を受け入れた。帝は大いに喜び、璽書を賜って嘉労した。
- 召し還されたのち、左都御史陸完が遷り、廷推で代わりを三度上ったがいずれも用いられず、最後に玠が推された。そこで右都御史として院事を掌った。御史李隠が玠は縁故で取り入ったと弾劾したが返答はなかった。
- 正徳十年(1515年)、戸部尚書を拝した。中官史大が雲南に鎮し、銀場の事務を独占して領したいと請い、杜甫は湖廣に鎮して塩船の税銀を進貢の資に借りたいと請い、劉徳は凉州を守って食茶六百引を帯びたいと請うたが、玠はいずれも不可と執った。西僧の闡教王が船三百艘で食塩を販載したいと請うと、玠はその害を極言した。
- 帝が初めて居庸を出たとき玠は切に諫めた。宣府にあって百万両を必要としたときも、玠は不可と執った。帝が従わなかったので、その半分を進めた。
- 王瓊が哈密の事で彭澤を害そうとしたとき、玠ひとりが廷上で彭澤を称えた。塩の利を貪ろうとする奸民が錢寧に賄賂して取り成しを請うたときも、玠は不可として章を連ねて執奏した。
- 廷臣が南巡を諫めて闕下に跪いたとき、諸大臣は敢えて言わなかったが、玠だけが論救した。小人どもが帝の怒りを煽り、厳しい旨で自ら陳べるよう責められたので、そのまま病を理由に去った。勅を賜って駅伝を許され、廩・隷を故事の通り給された。家居して二年で卒し、太子少傅を贈られた。
- 玠には操行があり、官に居っても正を持した。都御史であったとき、胡世寧が寧王を論じたのに対し、玠は李士實とともに世寧を処罰するよう請うた。このことで人に譏られた。
史論
- 贊に言う。武宗の末年、君徳は日に荒み、嬖倖が左右に盤踞していた。楊廷和は宰相となってもその徳を改めさせることはできなかったが、朝に立って正を持して阿らず、人々はみな彼を重しとして倚った。流賊を削平したことにも経済の遠謀があった。宸濠を勦滅したことは廷和とは関わりがなく、当時これを扶危定傾の功として周勃・韓琦になぞらえたのは行き過ぎである。梁儲は物議を蒙ったとはいえ大節に汚点はなかった。蒋冕・毛紀・石珤は清忠亮鯁、いずれも卓然として古の大臣の風があった。これ以後、政府は日に日に権勢で傾け合い、あるいは軟弱に取り入って禄を保ち身を固めるようになった。この人々のような者を求めても、どうして多くは得られようか。