出自と入閣
- 毛紀は字を維之といい、掖縣の人。成化末に郷試に第一で合格し、進士に及第して庶吉士に選ばれた。
- 𢎞治初に檢討を授かり、修撰に進み、經筵講官を務め、選ばれて東宮の講読に侍した。㑹典が成ると侍讀に遷った。
- 武宗が立つと左諭徳に改められ、㑹典の小さな誤りに坐して侍讀に降された。孝宗實錄が成ると侍講學士に抜擢され、講官となった。
- 正徳五年(1510年)學士に進み、戸部右侍郎に遷った。十年(1515年)、吏部左侍郎から禮部尚書を拝した。
活仏迎接への諫言
- 烏斯蔵が入貢したとき、その使者が「禍福を予知できる活仏がいる」と言った。帝は中官劉允を遣わして迎えさせ、錦衣の官百三十人・衛卒および私僕隷数千人を率いさせた。芻糧・舟車の費用は百万を以て数えた。
- 紀らは上言した。京師から烏斯蔵まで二万余里、公私の煩費は言い尽くせない。しかも四川の雅州から境を出て長河西を過ぎ、十月かかってようやく至るのであって、郵駅も村市もなく、一切の費用は四川で調達することになる。四川は数年続けて兵を用い、流賊がようやく平らいだところに蛮寇がまた起こっている。困窮しきったところにこの累を重ねれば、意外の変を生じかねない、と。疏を再び上り、内閣の梁儲・靳貴・楊一清もみな切に諫めたが、返答はなかった。
- 郊祀が終わると朝講に勤めるよう請い、また儲嗣が立てられていないとして早く大計を定めるよう乞うたが、これも聴かれなかった。
- まもなく誥勅を理め詹事府を掌る職に改められ、正徳十二年(1517年)東閣大學士を兼ねて機務に参預した。その秋、太子太保を加えられ文淵閣に改められた。
- 帝の南征のとき、紀は楊廷和を佐けて留守した。車駕が旋ると少保戸部尚書武英殿大學士に進んだ。
大礼の議と致仕
- 世宗が即位すると定策の功を録して伯爵を加えられたが、再び疏を上って辞退した。
- 嘉靖初、帝が興獻帝を追尊しようとしたとき、閣臣は執奏して旨に忤らった。嘉靖三年(1524年)、楊廷和・蔣冕が相次いで国を去り、紀が首輔となったが、なお初めの通り執った。
- 帝が本生の称を主張しようとすると、紀は石珤と合わせて疏を上って争った。帝は平臺に召見して婉曲に意を諭したが、紀はついに従わなかった。朝臣で闕に伏して哭き争った者がみな逮捕拘禁されると、紀は疏を具えて赦免を乞うた。帝は怒り、伝旨して「朋党の奸と要結して君に背き私に報いた」と紀を責めた。
- 紀はそこで上言した。かつて「国家の政事は商榷して可否を定めたのちに施行せよ」との聖諭を賜った。これこそ内閣の職分である。臣は愚かで明命に副えなかった。近ごろの大礼の議で、平臺での召対、司禮の伝諭は数知れず、商榷に似てはいたが、いずれも聖心から断ぜられ、允納を蒙らなかった。何の可否があろうか。
- さらに続けて言った。廷臣を笞罰することが数百に及ぶのは祖宗以来なかったことで、これもみな中旨から出て、臣らは与り聞くことができない。宣召はいたずらに繁くとも齟齬は元のままで、慰留は切なりといえども詰責がすぐに加わる。臣に国を体する心があっても尽くすことができない。宋の司馬光は神宗に「陛下が臣を用いられるのは、その狂直を察して国家に補うところがあると思われたからでしょう。もしいたずらに禄位で栄えさせるだけでその言を取らないなら、これは官を非其人に私することです。臣が禄位で自ら栄えながら救い正すことができないなら、これはいたずらに名器を盗んで身を私することです」と告げた。臣も陛下に敢えてこれを挙げて申し上げる。「朋党の奸と要結して君に背き私に報いる」というのは、まさに臣が平生痛憤し深く憎んできたことである。一つでもこれに当たるなら、罪は罷黜どころではない。今、陛下がこれをもって臣を疑われる以上、なお一日たりとも□(底本欠字)顔をさらして朝廷にいられようか。骸骨を賜って郷里に帰り終始を全うさせていただきたい。とりわけ陛下には、祖に法り学を典り、賢を任じ諫を納れ、是非を審らかにし忠邪を弁じて和平の福を養われるよう望む、と。
- 帝は紀の亢直を含んで去ることを允し、駅伝と夫・廩を故事の通り給した。
- 紀は学識があり、官に居って廉静簡直であり、楊廷和・蔣冕とともに正色して朝に立ち、搢紳の倚り頼むところであった。蔣冕に代わったのもわずか三箇月であった。
- のち明倫大典が成ると追論されて官を奪われた。久しくして廷和・蔣冕がみな亡くなり、紀は恩詔によって叙し復され、帝もまた忘れかけていた。嘉靖二十一年(1542年)、年八十になったことを撫按が報告すると、官を遣わして安否を問い、あらためて夫・廩を賜る詔が下った。さらに三年して卒し(1545年)、太師を贈られ文簡と諡された。
- 子の毛渠は進士、太僕卿。