明史卷一百九十 列傳第七十八 蔣冕

出自と入閣

  • 蔣冕は字を敬之といい、全州の人。兄の蔣昇は南京戸部尚書で謹厚をもって称された。
  • 成化二十三年(1487年)の進士に及第し、庶吉士に選ばれて編修を授かった。宏治十三年(1500年)、太子が出閣すると司經局校書を兼ねた。
  • 正徳中に累進して吏部左侍郎となり、詹事府を掌り誥勅を司る職に改められ、禮部尚書に進んでなお詹事府の事を掌った。冕は清廉謹直で器識があり、かねて時望を負っていた。
  • 正徳十一年(1516年)、文淵閣大學士を兼ねて機務に参預するよう命ぜられ、翌年武英殿大學士太傅に改められた。
  • 近倖が辺功を偽って大々的に陞賞が行われたとき、冕および梁儲も錦衣世襲千戸を廕されたが、二人は力めて辞したので文職の廕に改められた。

巡辺・南征への諫言

  • 帝が威武大將軍として辺を行こうとしたとき、冕は病んで休暇中であったが上疏して諫めた。陛下が自ら威重を損なって臣子と同じ位に下られれば、通過する諸王が大將軍の礼で見えたとき、陛下は何と言って責められるのか。かつて睿皇帝の北征では六軍の官属が三十万近くありながら土木で陥った。今は宿衛が単弱である。辺境行きの檄を目にして寒心せぬ者があろうか、と。左右で導いた者を罰するよう請うたが、返答はなかった。
  • 正徳十四年(1519年)、帝の南征に扈従した。還って少𫝊兼太子太傅戸部尚書謹身殿大學士を加えられた。
  • 帝が崩ずると、楊廷和と協力して江彬を誅した。世宗が即位すると定策の功を議して伯爵を加えられたが固く辞し、錦衣世襲指揮の廕に改められ、これも辞したので五品文職を廕され、なお一階を進められた。
  • 御史張鵬が大臣の賢否を評する疏を上って冕の罷免を請い、御史趙永亨は石珤が銓衡を掌るべきでないと誹った。冕と石珤はそこで去ることを求めたが、朝議はこれを不可とし、諸給事中・御史も去らせるべきでないと言った。帝は鴻臚に留任を諭させ、さらに優詔を下してようやく起って事に視した。

織造と大礼の議、首輔として去る

  • 嘉靖三年(1524年)、江南に織造の官を遣わすことになり、冕に勅を草すよう命じた。冕は江南が被災していることを疏に具えて止めるよう請うたが、帝は従わず、勅も久しく進めなかった。帝がその違背怠慢を責めたので、冕は罪を認めてやめた。
  • 大礼の議が起こると、冕は人の後嗣となる説を固く執って楊廷和らとともに力争した。帝は初め婉やかに諭し、続いて譙責したが、冕は議を執って改めなかった。
  • 廷和が政を罷めると冕が国を当たった。帝はいよいよ生みの親を尊崇しようとして、禮部尚書汪俊を逐って冕を怖れさせ、席書を代わりに用い、あわせて張璁・桂蕚を召した。物情は甚だ沸き立った。
  • 冕はそこで抗疏して諫めた。陛下が丕基を嗣ぎ承けられたのは、もとより倫序が素より定まっていたからではあるが、聖母昭聖皇太后の懿旨と武宗皇帝の遺詔がなければ命を受けるところがなかった。今すでに武宗から命を受けられた以上、当然武宗の後となるべきである。ただし兄弟の名は紊すことができないから、武宗を兄とし孝宗を考とし昭聖を母とし、孝廟・武廟に対してはいずれも嗣皇帝と称し、臣と称し御名を称して、統を継ぎ祀を承ける義を示すのである。しかるに今、本生の父母のために奉先殿の側に廟を立てようとされる。臣は至愚とはいえ、断じてその不可を知る。
  • さらに続けて言った。古来、人君が統を継ぐことを承祧・践祚といい、いずれも宗祀を指す。礼に人の後となるのは大宗だけであるというのは、大宗が尊の統だからであり、これも宗廟の祭祀について言うのである。漢から今に至るまで、本生の父母のために大内に廟を立てた例はない。漢の宣帝は叔祖である昭帝の後を継ぎ、生父の廟を葬所に立てるにとどめた。光武の中興はもともと平帝の統を承けたものではないが、四親の廟を章陵に立てるにとどめた。宋の英宗の父濮安懿王も、園に即して廟を立てるにとどめた。陛下は先年、安陸に廟を立てる旨を出されており、前代と適合してその当を得ている。どうして大宗の祀を奉じながら、さらに小宗の祀を兼ね奉じられようか。情が生みの親に重ければ、義は必ず後嗣となった先に専らでなくなる。孝・武二廟の霊はどこに托せばよいのか。獻帝の霊もまた安んじられまい。聖心もまた自ら安んじられまい、と。
  • また、汪俊の辞任を允され、張璁・桂蕚の到来を促されたことで人心はいよいよ驚いている、この日、廟を建てる廷議があったが、天は晴明であったのににわかに陰晦となり、暮れには風雷が大いに起こった。天意がかくの如くである以上、陛下は計を変えることを思われないでよいのか、と述べ、力めて去ることを求めた。
  • 帝は疏を得て悦ばなかったが、なお大臣であるがゆえに優詔で答えた。まもなく冕はまた建廟の議を罷めるよう請い、あわせて休を乞い、疏の中で再び天変を言った。帝はいよいよ悦ばず、駅伝で帰らせ、月ごとの廩と歳ごとの夫を制の通り給した。
  • 冕は正徳の末、主が昏く政が乱れた中で正を持して撓まず、匡弼の功があった。世宗の初め、朝政は新たになったとはいえ上下の齟齬はいよいよ甚だしかったが、冕は守るところを移さなかった。廷和に代わって首輔となったのはわずか二箇月で、齟齬して去った。論ずる者は古の大臣の風があると謂った。
  • 明倫大典が成ると職を落とされて閑居し、久しくして卒した。隆慶初に官を復され、文定と諡された。