明史卷一百九十 列傳第七十八 梁儲
梁儲(字は叔厚)は廣東順徳の人で、陳獻章に学び、成化十四年の会試に第一で及第した。東宮で武宗に侍し、安南冊封の使では贈り物を斥けた。劉瑾に降格されたが、その誅後に吏部尚書兼文淵閣大學士として入閣。正徳十年に楊廷和の服喪により首輔となり、宮殿の造営、微行、居庸關を出ての巡辺、朱夀への鎮國公加封、秦王への関中閑田下賜などをことごとく諫めた。秦王の請田では制の草に警告の辞を織り込んで沙汰止みにさせている。宸濠の乱後の南征には扈従し、行宮の門外に跪き泣いて回鑾を承諾させた。武宗の崩後は老齢を押して安陸へ世子を迎えに行き、世宗の即位後は弾劾を受けて致仕。卒して太師を贈られ文康と諡された。
年表(4件)
- 成化十四年1478年会試に第一で及第し、庶吉士から編修を授かる
- 宏治四年1491年侍讀に進み、洗馬に改まって東宮で武宗に侍する
- 正徳十年1515年楊廷和の服喪により首輔となり華盖殿大學士に進む
- 正徳十三年1518年朱夀名義の巡辺の勅を拒み、鎮國公加封の不可を上言する
出自と入閣
- 梁儲は字を叔厚といい、廣東順徳の人。陳獻章に学んだ。成化十四年(1478年)の会試に第一で及第し、庶吉士に選ばれて編修を授かった。まもなく司經局校書を兼ねた。
- 宏治四年(1491年)侍讀に進み、洗馬に改められて東宮で武宗に侍した。安南に冊封の使として赴いたとき、その贈り物を斥けた。
- 久しくして翰林學士に抜擢され、㑹典の修纂に参与し、少詹事に進み、吏部右侍郎を拝した。正徳初に左に改められ、尚書に進んで専ら誥勅を掌り、詹事府を掌った。劉瑾が㑹典の小さな瑕をあげつらい、儲は右侍郎に降された。孝宗實録が成ると尚書に復し、まもなく太子少保を加えられて南京吏部に移された。
- 劉瑾が誅されると、吏部尚書兼文淵閣大學士として入って機務に参じた。しばしば少傅・太子太傅を加えられ、建極殿に進んだ。
首輔として武宗を諫める
- 正徳十年(1515年)、楊廷和が喪に遭って去ると、梁儲が首輔となり、少師太子太師華盖殿大學士に進んだ。
- 当時、乾清・坤寧の宮を建て、さらに太素殿・天鵞房・船塢を営んでいた。儲は同官の靳貴・楊一清とともに切に諫めた。
- 翌年春、国本が定まっていないとして、宗室の賢者を択んで京師に居らせ儲貳の選に備えるよう請うたが、いずれも返答がなかった。その秋に楊一清が罷め、蔣冕が代わった。翌年に靳貴も罷め、蔣冕・毛紀が入閣した。
- 帝は微行を好み、かつて西安門を出て一夜を明かして帰った。儲らが諫めたが聴かれず、それでも外廷に知られるのを慮った。この春、近倖の言に従って百官を左順門に召し、郊祀を終えたら南海子に幸して狩猟を観ると明告した。儲ら廷臣が諫めたがみな納れられなかった。
- 八月朔、微服で数十騎を従えて昌平に幸した。翌日になって儲・蔣冕・毛紀がようやく知り、沙河まで追ったが及ばず、連ねて疏を上って回鑾を請うた。十三日を越えてようやく旋った。
- 儲らは、国に儲副がないのに帝の遊興が息まないことを憂え、内外の危疑を思って建儲の請を強く申し立てたが、これも返答がなかった。
- 九月、帝は居庸關を馳せ出て宣府に幸し、谷大用に関を守らせて廷臣を出させぬよう命じた。そのまま宣府から大同に至り、應州で敵に遭ってほとんど危うかった。儲らは憂懼して回鑾を請うことますます急となり、章は十余上ったが帝は動かず、年の暮れまでついに宣府に留まった。
- このころ帝の失徳はいよいよ甚だしく、小人どもが権を窃んで朝政を濁乱させ、人情は惶々としていた。儲は任に堪えないことを懼れ、楊廷和が服喪を終えたのでしきりにその召還を請うた。廷和が還朝すると、儲は譲ってその下に位置した。
- 鳳陽守備の中官邱徳、および延綏・寧夏・大同・宣府に鎮守する諸中官が、みな勅書を改めて民事をも兼理させてほしいと乞い、帝は許した。儲らは不可を極言したが聴かれなかった。
巡辺・鎮國公の封と秦王の請田
- 正徳十三年(1518年)七月、帝は江彬の言に従って辺境を遍く遊ぼうとし、辺関に警報が多いと託言して、總督軍務威武大將軍總兵官朱夀に六師を統べて征かせると命じ、内閣に勅を草させた。閣臣は承知しなかった。帝はまた百官を左順門に集めて面諭した。楊廷和・蔣冕は休暇中で、儲と毛紀が泣いて諫め、衆もまた泣いた。帝の意は回らなかった。ほどなく毛紀も病と称し、儲ひとりが数日にわたって廷争したが、帝はついに聴かなかった。
- 一月を越えて、帝は大將軍朱夀が辺境を粛清したとして鎮國公を加封するよう命じた。儲と毛紀は上言した。公は貴いとはいえ人臣にすぎない。陛下は祖宗の業を承けて天下の君たる身でありながら、なにゆえ自ら厚く貶損されるのか。国公に封ずるとなれば誥券を授け三代を追封することになるが、天にある祖宗の霊も陛下の貶損を肯じられようか。まして鉄券には必ず免死の文がある。陛下は寿福無疆であるのに、どうして自ら菲薄にしてこの不祥の辞を蒙られるのか。名がすでに正しくなければ言は自ずと順わない。臣らは断じて意に阿って苟も従い、他日身を戮され家を亡ぼす禍を取ることはできない、と。返答はなかった。
- 帝はそのまま宣府・大同を歴て延綏に至った。儲らの疏は数十上ったが、悉く省みられなかった。
- 秦王が関中の閑田を牧地として請い、江彬・錢寧・張忠らが皆これを取り成した。帝は群議を排して許し、閣臣に制を草すよう命じた。楊廷和・蔣冕は病と称し、帝はひどく怒った。儲は争えないと見て、制の草を上って言った。太祖高皇帝は令を著して、この地を藩封に与えないとされた。惜しんだのではなく、その地が広く豊かで、藩封がこれを得れば士馬を多く蓄えて富み驕り、奸人が誘って不軌をなし宗社に不利となるのを念じられたのである。王は今この地を得たからには、いよいよ謹しみ、奸人を集めず、士馬を多く蓄えず、狂人の不軌の謀を聴いて辺方を震わせ我が社稷を危うくするなかれ。そうなっては親親を保とうとしても得られない、と。帝は驚いて「そこまで憂うべきことか」と言い、事は沙汰止みとなった。
- 翌年、帝が南巡しようとし、言官が闕に伏して諫めた。儲・蔣冕・毛紀もこれを言い、諸曹に諫める者が多かったのでやんだ。
南征の扈従と回鑾の請い
- 寧王宸濠が反し、帝が南征しようとしたとき、儲と蔣冕は扈従した。道中で賊が滅んだと聞き、連ねて疏を上って車駕の帰還を請うた。
- 揚州に至って帝が南京で郊礼を行うことを議すと、儲と蔣冕は、この議が行われれば回鑾はいよいよ日がなくなると考え、不可を極めて陳べ、疏を三たび上げてようやく聴き入れられた。
- 帝が、宸濠が檻送されて来ると聞いて処置の当否を問うと、儲らは、宣宗が高煦を征した故事の通り、罪人が得られたらその日のうちに班師するよう請うた。また郊期を改めト占したことや、四方の災異・辺警を理由に乗輿の還御を乞い、疏は八、九上ったが、帝には全く還る意がなかった。
- この秋、行在で豕の首のようなものが帝の前に墜ち、色は碧であった。また御婦人を進めた室の中に人の首を懸けたような形のものがあり、人情はいよいよ驚いた。儲と蔣冕は危言を極めて諫め、帝もやや心を動かしたが、宵小はなお帝を浙西に遊ばせ江漢に泛かべさせようとした。
- 儲と蔣冕はいよいよ懼れ、手ずから疏を持って行宮の門外に跪いて泣き、未の刻から酉に至った。帝は人を遣わして疏を取り入れさせ諭したが、起って叩頭し、俞旨を賜らねば敢えて起てないと言った。帝はやむなく近く京に還ると許し、そこで叩頭して退いた。
世宗の迎立と晩年
- 帝が崩じ、楊廷和らが策を定めて興世子を迎えることになった。故事では内閣から一人が中官・勲戚とともに礼官に付き添って往くことになっていた。廷和は蔣冕を留めて自らを助けさせたいと思い、また儲が老いて行くのを憚るのではないかと慮り、そこで儲の老疲を惜しむふりをしてその行を阻んだ。儲は奮って「事にこれより大なるものがあろうか。疲れを理由に辞せようか」と言い、定國公徐光祚とともに安陸の邸に世子を迎えに行った。
- 即位すると、給事中張九叙らが、儲は大奸と結び禄を保ち寵を固めていたと弾劾した。儲は三たび疏を上って去ることを求め、勅を賜って駅伝で帰らせ、行人を遣わして護送させ、歳ごとに廩・隸を制の通り給された。
- 卒すると、子の梁鈞が贈官と諡を奏請したが、吏部侍郎桂蕚らは、儲の立身と輔政には公議に触れるところがあるとして、両京の言官の弾章を録して上った。帝は先朝の旧臣であることを念い、特に太師を贈り文康と諡した。
- 先に儲の子の梁次攄は錦衣百戸として家に居り、富人の楊端と民田を争った。楊端が田主を殺すと、次攄は楊端の家二百余人を滅ぼした。事が発覚したが、武宗は儲のゆえにわずかに辺衛に発して功を立てさせただけで、のちに職に還され、功を冒して累進し廣東都指揮僉事に至った。