葉釗
- 葉釗は字を時勉といい、豐城の人。𢎞治十五年(1502年)の進士で、南京刑部主事に任じられた。獄の囚人が久しく滞留していたのを、すべて法に照らして出した。守備中官が蘆洲を侵していたのを、裁いて民に返した。應天の諸府が災害に遭ったときは荒政四事を上申した。ほどなく員外郎に進んだ。
- 武宗が立つと、詔に応じて八事を陳べた。その中で「宣府・大同が寇に襲われて兵卒が千人近く殺されたのに、監督中官の苗逵は首功を偽って報じました。召し還して取り調べを待たせるべきです。宦官が兵をつかさどることは古には見えず、唐にはじめて用いて宗社は丘墟となり、わが正統朝に用いて鑾輿は北に狩りしました。今後は軍務に監督を遣わさず、鎮守の者もまた撤収すべきです。しかも国初、宦官はすべて禮部に属し、秩は四品を越えず、職は掃除にすぎませんでした。いま改めて部に属させ、司禮監を入れ替えて雑役に当たらせ、東廠を廃止して他所に移されたい。そうすれば左右が権を専らにできず、はじめて天下は安んじられます」と述べた。
- また劉大夏を召し還し、諫官の戴銑らを宥すよう乞うた。劉瑾は怒って、獄の裁きを誤ったとして詔獄に逮え、籍を削って帰らせた。西江で講学した。劉瑾が誅されて禮部員外郎に起用されたが、その命を聞かぬうちに卒した。学ぶ者は石鼓書院で祀った。
劉天麒
- 当時また工部主事の劉天麒がいた。臨桂の人で、葉釗と同年の進士である。吕梁の分司にあり、通りかかった宦官に礼を尽くさなかったので、劉瑾に訴えられて詔獄に下され、貴州の安莊驛丞に左遷されて卒した。嘉靖の初めに官を復され、祭を賜った。