明史卷一百八十九 列傳第七十七 胡爟

胡爟

  • 胡爟は字を仲光といい、蕪湖の人。𢎞治六年(1493年)の進士で、庶吉士に改まり、户部主事を授けられた。
  • 𢎞治十年(1497年)三月、災異により言を求められ、胡爟は詔に応じて疏で述べた。「中官の李廣・楊鵬が邪道の劉良輔らを引き入れて聖聡を惑わし乱し、みだりに斎醮を設けて国の蓄えを浪費しております。しかも不肖の士大夫が暮れ方にその門で憐れみを乞い、交わりを結んで請託しております。陰が盛んで陽が微弱では、災いをどうやって消せましょうか」。あわせて外戚・方士・伝奉の冗員の害を極言した。疏は留め置かれた。まもなく李廣が死んだので、胡爟は罪を免れた。
  • 成化のころは宦官が権を握り、孝宗が位を継いでからは時に罷免もあったが、勢いは積み重なって急には戻せなかった。これに逆らう者は必ず徒党を組んで陥れられ、勝つまではやめなかった。前後の官僚で宦官に逆らって陥れられた者には次のような例がある。

周時從・王雄

  • 𢎞治元年(1488年)、户部員外郎の周時從が、先朝の残った奸臣である汪直・錢能・蔡用らを重刑に処し、両京および四方の鎮守中官を調査するよう疏で請うた。諸宦官はその奏の中の「宗社」の字が格式を越えているとあげつらい、法司に逮えて処断するよう命じさせたが、まもなく釈放された。
  • 𢎞治十三年(1500年)秋、大同で警報があり、保國公朱暉に防がせることになった。行人で永清の人である王雄は、朱暉が任に堪えないことを極言し、あわせて中官の監督を廃して将権を重んじるよう請うた。苗逵はちょうど朱暉の軍を督していたので、王雄が軍を阻んだとして詔獄に下し、雲南の浪穹縣丞に左遷した。