湯禮敬
- 湯禮敬は字を仁甫といい、丹徒の人。𢎞治九年(1496年)の進士で、行人を授けられ、刑科給事中に抜擢された。
- 正徳の初め、上言した。「陛下が位に即かれて以来、上天はたびたび災いを示して譴めておられます。それでも天の戒めを慎まず、ひたすら馬を走らせ狩りをして遊楽に度がありません。先ごろ四月中旬に雷電と雹がありました。六陽が働くべき時節に陰気がこれに抗したのは、幸臣が権を盗み、忠鯁の臣が遠ざけられていることの応です」。
- ついで両廣の鎮監である韋經を論じ、また九卿とともに闕に伏して八党の誅殺を請うたので、劉瑾は恨んだ。
- ほどなく、囚人の処刑を審議して奏する日に冤を訴える者があっても取り次がず奏さないよう請うたことを、祖制を変えるものだとされ、薊州判官に左遷された。のち奸党として挙げられた給事中十六人のうち湯禮敬が筆頭であった。罷免されて帰り、まもなく卒した。
- 劉瑾は言官が時政を譏るのを憎み、その多くが自分を刺していると考えて、しばしば他の事にかこつけて罪に落とした。湯禮敬が罪を得たのち、王渙と何紹正がいる。
王渙・何紹正
- 王渙は字を時霖といい、象山の人。𢎞治九年(1496年)の進士で、長樂知縣から召されて御史を授けられた。正徳元年(1506年)、詔に応じて應天における要道五事を条陳し、言葉の多くが宦官を斥けるものであった。翌年、山海の諸関を視察に出るはずが、病と称して辞し、出発しないうちに管内で盗賊が起こった。都御史の劉宇は劉瑾の指図を受けて、王渙が報告を怠ったと弾劾し、詔獄に逮えて杖を加え、民に落とした。劉瑾が敗れて官に復し、致仕した。
- 何紹正は淳安の人。𢎞治十五年(1502年)の進士で、行人を授けられ、正徳三年(1508年)に吏科給事中に抜擢された。中官の廖堂が河南を鎮守し、方面官数人の保任を奏し、しかも勝手に遷転を立案した。吏部尚書の許進らも咎めることができなかったが、何紹正が弾劾したので、劉瑾はやむなく廖堂に自ら弁明させたものの、内心では何紹正を深く恨んだ。その冬、暦を頒つ際に車駕を導く儀礼を誤ったとして闕下で杖を受け、海州判官に左遷された。たびたび遷って池州知府となり、銅陵に五十余の圩を築いて旱と水に備えた。宸濠が反いて安慶を攻めたとき、池州の人は震え恐れたが、何紹正は城壁に登って固く守った。事が平らいで俸一階を増され、江西參政に遷って致仕した。池州の人は生祠を立て、宋の包拯とともに祀った。