明史卷一百八十七 列傳第七十五 俞諫

出自と江西の討賊

  • 俞諫は字を良佐といい、桐廬の人。父の藎は進士に挙げられ御史となり、江西を巡按して外戚の王氏・萬氏の宗族の横暴を取り締まったが、事に坐して澧州判官に左遷された。大いに堤堰を築いて田一萬頃ほどを灌漑し、累進して鄖陽知府となった。
  • 俞諫は𢎞治三年(1490年)の進士に挙げられ、長清知縣を授けられ、南京御史に抜擢された。河南僉事に遷り、嵩の賊である呂梅を捕らえた。江西參議を歴任し、大㡌山の賊を平らげ、廣東副使に遷ったが、途中で召されて大理少卿となった。
  • 正徳六年(1511年)、右僉都御史に抜擢されて蘇州・杭州の諸府で治水にあたり、圩と塘を修めたので民はその利を享けた。ほどなく右副都御史に進み、操江を提督した。
  • 正徳八年(1513年)春、姚源で降っていた賊の王浩八が叛いたので、詔で俞諫が陳金に代わって江西・浙江・福建の諸軍を督して討った。当時、王浩八の衆は一萬余で浙江の開化に屯していたが、同知の伍文定らに破られて江西の徳興に逃げ帰り、捕らえていた都指揮の白𢎞・江洪を人質として按察使の王秩に招撫を求めた。王秩がこれを受け入れ、姚源へ護送させた。
  • 王浩八は貴溪の裴源山に奔って拠り、残った衆がまた集まって陣営を十里に連ねた。俞諫は王秩と副使の胡世寧、參政の吳廷舉に要害に分屯させて退路を断ち、自ら都督の李鋐とともに夜半に雨を冒してひそかに進み、大破して数千人を捕斬し、ついに王浩八を捕らえた。その一味は玉山へ逃げたが、俞諫は南贛巡撫の周南、江西巡撫の任漢とともに再び撃って七百余人を斬った。残った賊は姚源へ奔ったが、俞諫は吳廷舉らを督して進剿し、追い詰めて捕らえた。
  • 俞諫は陳金の失敗に懲りて一途に兵を用いた。しかし任漢は臆病で、以前に布政使であったころ陳金の招撫論を支持しており、しきりに首級の功を上申しながら賊を追うのが遅く、そのため残党がまた起こった。

江西巡撫としての鎮定と漕運総督

  • 先に東鄉の賊は陳金に敗れて降を乞い、胡世寧に属して「新兵」と称していたが、掠奪は従来どおりであった。やがて罪を恐れて再び叛いたので、參将の桂勇らを遣わして討ち捕らえた。
  • 萬年に県を立てたとはいえ賊はなお多く、吏胥の多くが賊の一味で、官府の動静はすべて筒抜けであった。副使の李情の取り締まりが厳しかったので衆は叛こうとしたが、李鋐が餘干にいるのを恐れて動けなかった。李鋐が卒すると、王垂七・胡念二らがついに乱を起こし、李情および饒州通判の陳逹・秦碧、指揮の邢世臣らを殺して役所を焼いた。俞諫が兵を発して捕らえ、乱はようやく鎮まった。
  • 言官が俞諫と任漢を弾劾し、南京兵部が任漢の召還を請うたので、俞諫が巡撫を兼領するよう命じられた。
  • 翌年、臨川の賊を撃ってその首魁を斬り、參将の李隆を遣わして新淦の賊を撃たせた。賊は万山の中に拠って王を僭称すること八年に及んでいたが、李隆らが深く入ってことごとく捕らえ、千七百余人を捕斬した。功を録して俞諫は右都御史に進み、巡撫はもとのままであった。
  • 凶賊の徐九齡は、初め建昌の醴源で衆を集め、のち江湖の間に出没して三十年に及び、黄州・徳安・九江・安慶・池州・太平がいずれもその害を被っていた。俞諫はこれを討ち斬り、群盗はすべて平定された。
  • 寧王宸濠が御史の張鰲山をそそのかして俞諫を弾劾させた。正徳十一年(1516年)に召し還され、そこで致仕を乞うた。

山東の礦盗討伐と最期

  • 嘉靖の改元にあたり、推薦によってもとの官で起用され、漕運を總督した。
  • 青州の礦盗である王堂らが顔神鎮で起こり、東昌・兖州・濟南を流れ歩いて掠めた。都指揮の楊紀および指揮の楊浩らが撃ったが、楊浩は死に、楊紀はかろうじて免れた。詔で山東の将吏が責められ、諸臣は道を分けて賊を追った。賊はもはや屯集せず、金鄉・魚臺のあたりを流動して掠め、曹州に突入して河を渡ろうとしたができず、また考城を掠め、河の西岸に沿って東明・長垣に至った。河南および保定の守臣もみな急を告げた。賊の一味の王友賢らは転じて祥符・封邱を掠め、南は徐州に至った。
  • 廷議は、諸道の巡撫は権位が対等で統制が取れないとして、俞諫と都督の魯綱に両畿・山東・河南の軍務を提督させ、臨機に諸道の兵を節制して討たせた。
  • 賊がまた考城に流れて来て、官軍がまさに撃とうとしたとき、河南で降っていた賊の張進が三百騎を率いて駆けつけ、中都留守の顔愷がこれと行動をともにした。戦いが始まるや張進は突然三たび旗を振って先に退き、賊がこれに乗じたので官軍は大潰し、将士の死者は八百余人に及んだ。俞諫らが陣営を連ねて進むと、賊はようやく滅んだ。
  • その秋、召されて都察院の事を掌り、一年余りして官にあって卒した。太子太保を贈られ、諡は莊襄。