明史卷一百八十六 列傳第七十四 張鼐

張鼐

  • 張鼐は字を用和といい、厯城の人。成化十一年(1475年)の進士で、襄陵知縣を授けられ、入って御史となった。
  • 憲宗の末年、しばしば言官を笞打ったので、張鼐は力を尽くして諫めた。また妖僧の繼曉、方士の鄧常恩らを弾劾したので、帝は内心これを憎んだ。
  • 江西を巡按したとき、盗賊の多くが有力な宗室の小作人や下僕であったので、張鼐は巡撫の閔珪とともにその事を奏した。尹直らが陥れたので、閔珪は貶められ、張鼐は尹旻の党に坐して郴州判官に左遷された。
  • 𢎞治の初め、河南僉事に抜擢され、參議に進み、黄陵岡の治水を協力して行った功で副使に遷った。𢎞治十五年(1502年)に按察使に進んだ。張鼐は河南に長くいて、たびたび黄河の水害に遭ったが、治水をよく指揮したので、民は生祠を立てた。
  • その年の秋、右僉都御史に抜擢されて遼東を巡撫した。当時、軍政が久しく緩み、また余丁が銀を納めて駅伝を助ければ冠帯を給して本人の役を免ずることを許していたので、辺の人が競って前例を援いて役を避けていた。張鼐は不可を説き、馬制を定めること、屯糧を調べること、隠田・占有を洗い出すこと、客戸を調べること、軍伴を減らすことなどを条陳して、すべて許された。
  • ついで分守中官の劉恭の貪虐の罪を弾劾した。辺牆を山海關から開原の靉陽堡まで千余里にわたって築いた。
  • 遼東の巡撫は徐貫の後、張岫・張玉・陳瑤・韓重の四人が歴任したがいずれも罪を得て去った。張鼐に至って有能と称された。
  • 武宗が立つと宣府の巡撫に移り、正徳の改元にあたり召し還され、ほどなく右副都御史に進んで院の事を掌った。ある知縣が贓罪で職を奪われるべきところ、その従僕は人を殺して死罪に当たっていた。劉瑾が重い賄賂を受けて寛くしようとしたが、張鼐は固く拒んだので、南京右都御史として出された。
  • 焦芳の子の黄中がその住居を無理に買い取って通政の魏納に与えようとしたが、張鼐が従わなかったので、焦芳父子もこれを恨んだ。
  • たまたま劉瑾が給事中の王翊らを遣わして遼東の軍餉を調べさせたところ、還って「秣も粟も多く湿り腐っている」と奏したので、これを守臣の罪として、張鼐および後任の巡撫である馬中錫・鄧章、前參政の冒政、參議の方矩、郎中の王藎・劉繹を詔獄に下し、家人に米を遼東へ納めさせた。張鼐は二千石を課されたが、力が及ばず、遼東に長く繋がれた。總兵官の毛倫らが人々の窮状を奏して代価での納入を許すよう請い、劉瑾はしぶしぶ従った。三年を経てようやく事が終わり、いずれも民に落とされた。劉瑾が誅されて官に復したが、張鼐はそれ以前に卒しており、世宗の初めに恤典を賜った。

冒政

  • 冒政は泰州の人で、張鼐と同年の進士である。右副都御史を歴任して寧夏を巡撫した。官にあって清廉で、劉瑾が賄賂を望んで得られなかったので、遼東の件にかこつけて逮え、米三千石まで罰した。劉瑾が誅されて復職し、致仕した。久しくして卒した。