御史から大理少卿まで
- 張泰は字を叔亨といい、廣東順徳の人。成化二年(1466年)の進士で、沙縣知縣に任じられた。当時、鄧茂七の乱の直後だったが、張泰は撫して流亡した民を招き集め、すっかり復旧させた。
- 入って御史となり、同官とともに万貴妃が政に干与することを諫めて廷杖され、危うく死にかけた。京畿の学校を督することとなり、憂で去って十余年家にいた。
- 𢎞治五年(1492年)、もとの官に起用され雲南を巡按した。孟密の土舍である思揲が乱を起こし、兵で木邦宣慰使の罕穵法を孟乃砦に閉じ込めた。守臣が撫諭したが従わないので、張泰は巡撫の張誥とともに兵を集めて必ず討つ姿勢を示すと、思揲は恐れて兵を収めた。
- 滇池が溢れて民の災いとなったので、張泰は堤を築いてその患いを防いだ。
- 還朝すると、織造の内臣を罷め、皇莊および貴戚の莊田を減らし、被災地の税賦を免じ、畿内の災民に牛と種を給するよう乞うたが、詔では牛と種を給するだけで、他は行われなかった。
- 寇が永昌に入ったとき、甘肅遊撃の魯麟が罪を副總兵の陶禎に押しつけ、總兵官の劉寧は「守臣が不和である」と疏で述べたので、詔で張泰が調べに赴いた。張泰は、鎮守太監の傳惪と前總兵官の周玉が屯田を侵し占め、巡撫の馮續が軍餉を削り、寇がたびたび入っても誰も防ごうとせず、士卒六百余人と馬・駱駝・牛・羊二萬を失いながら報告していないことを奏した。帝は怒って吏に下し、傳惪は内使に降されて南京に禁錮され、馮續は口外に流された。
- 張泰はさらに、甘州の肥沃な地がすべて中官と武臣に占められながらなお軍に税を課していること、城北の草湖は戍卒の馬の放牧に用いる所なのに今は占拠されていることを述べ、すべて軍に返し、あわせてこの措置を延綏・寧夏の二鎮にも及ぼすよう請い、詔ではみな従った。
- 太僕少卿に遷り、大理に改まった。もともと薊州の民田の多くが牧馬の草場に侵され、その草場もまた御馬監と神機営の草場・皇莊に侵されて、貧民は生業を失い、草場も定額に足りなくなっていた。孝宗はたびたび給事中の周旋、侍郎の顧佐・熊翀らを遣わして調べさせたが、いずれも決着しなかった。
- ここに至って張泰は錦衣官とともに巡撫の周季麟と会同して再調査を命じられた。張泰は密かに永樂年間の旧籍を探し出して照合し、民に返すべき田九百三十余頃を割り出し、しかも京營と御馬監の牧地はいずれも定額を欠かないようにした。奏が入ると反駁の議が二度あったが、尚書の韓文が強く支持した。留め置かれて下されなかったが、武宗が位を継ぎ、韓文が改めて請うてようやく下された。張泰の奏によって流亡した者はみな生業に復した。
南京の任と最期
- ほどなく右副都御史に遷り、南京で儲蓄を督し、十二事の改革を奏してその多くが許された。
- 正徳二年(1507年)、召されて工部右侍郎となり、一年余りして南京右都御史に遷った。
- 張泰は清廉謹直で、劉瑾が権を専らにし朝廷の貴顕が争って賄賂を贈るなかで、奏表を京に送るときも土地の葛布を贈るだけだったので、劉瑾は恨んだ。その年十月、南京户部尚書として致仕させられ、翌年七月に卒した。ほかの事を口実に米数百石を罰せられた。劉瑾が誅されると、制度どおりの葬祭を賜った。
呉文度
- 呉文度は字を憲之といい、晉江の人。父に従って江寧に客居し、そのまま住みついた。成化八年(1472年)の進士に登り、龍泉知縣に任じられ、召されて南京御史となった。同官の孫需らとともに妖僧の繼曉を論じて廷杖された。
- ほどなく汀州知府に遷った。猺が治まらなかったので、方策を立てて撫し、猺も住民と同様に賦を納めるようになった。
- 𢎞治年間に江西左參政、山西・河南の左右布政使を歴任した。
- 正徳元年(1506年)、右副都御史に遷って雲南を巡撫した。師宗州の賊である阿本らが乱を起こし、諭しても従わないので、參議の陳一經らに二萬の軍を督させて攻めさせ、別に兵を遣わして盤江を断ち賊の巣の背後を押さえ、前後で千人を捕斬した。
- 入って户部侍郎を歴任し、正徳三年(1508年)冬に南京右都御史に進んだ。呉文度が雲南から召されたとき、劉瑾は雲南が金宝を産することからたびたび賄賂を求めたが、呉文度は応じられず、劉瑾は深く恨んだ。
- たまたま工部尚書の李鐩が致仕し、廷推で呉文度と南京户部侍郎の王珩が挙がると、呉文度を南京户部尚書に改めたうえで王珩ともども致仕させた。命が下ると朝廷中が驚き怪しんだ。
- 帰ってみると住まいはわずか数間の小屋であった。劉瑾が誅されたが、用いられぬうちに卒した。王珩は趙の人で進士から身を起こし、やはり清操で知られた。