明史卷一百八十六 列傳第七十四 胡富

胡富

  • 胡富は字を永年といい、績溪の人。成化十四年(1478年)の進士で、南京大理評事を授けられた。𢎞治の初め、福建僉事を歴任した。福寧で二百余人が囚われていたが、胡富が一度訊問しただけですべて処断が定まり、獄はたちまち空になった。
  • 憂で去り、山東に補され、廣東副使に遷った。四㑹で猺が乱を起こすと、討って五百余人を捕らえた。瀧水の猺は出没が定まらなかったので、胡富はその通り道を測って荒田三千余頃を得、獞戸を招いてそこで耕作放牧させた。猺は獞を畏れて出て民を擾すことができなくなり、住民は耕作を続けられた。
  • 符南蛇が儋州を囲んだとき、胡富は參議の劉信とともに偵察に赴いたが、賊が突然現れて劉信を殺した。胡富は自らの手で凶賊一人を斬り、賊はそこで退いた。還って兵を増やして討ち平らげた。
  • 陝西左右布政使を歴任し、正徳の初めに入って順天府尹となった。正徳三年(1508年)、南京大理寺卿に進み、そのまま户部右侍郎に遷った。
  • 正徳五年(1510年)正月、大理にいたころ事案の調査が遅かったことに坐して致仕を強いられたが、これも劉瑾の意であった。劉瑾が敗れるともとの官に起用され、正徳七年(1512年)に本部の尚書に拝された。南都の倉の備蓄は一年分しかなかったが、胡富は部にあること三年で六年分の蓄えを作った。十余事を上申したがいずれも権貴に都合が悪く、阻まれて行われなかったので、年齢を理由に帰郷した。嘉靖元年(1522年)に卒、太子少保を贈られ、諡は康惠。