明史卷一百八十六 列傳第七十四 熊繡

熊繡

  • 熊繡は字を汝明といい、道州の人。先祖は戍の籍で豐城から移った。成化二年(1466年)の進士に挙げられ、行人を授けられた。楚府への使いを奉じ、四川で茶を巡察したとき、贈り物を強く拒んだ。
  • 御史に抜擢されて陝西を巡按した。左布政使の于璠が官帑の銀を苑馬卿の邵進に贈っていたので、熊繡はその罪を摘発した。于璠は逃げて京に赴き熊繡を訐いたので、帝は熊繡もあわせて吏に下し、清豐知縣に左遷した。于璠と邵進も除名された。
  • 久しくして鳳翔の知府に欠員が出たので、熊繡が抜擢されて任じられた。𢎞治の初め、山東左參政に遷り、右布政使に進んだ。
  • 𢎞治七年(1494年)、右副都御史として延綏を巡撫した。榆林ははじめ小さな堡で兵を駐めて冬に備えるだけだったが、景泰年間にはじめて巡撫と總兵官を移して置き、そこで西北の巨鎮となった。城が狭くて収容できないので、熊繡は千二百余丈の増築を請うた。鎮に臨むこと数年、兵を練り粟を積み、辺政は整った。
  • 兵部左右侍郎を歴任し、尚書の劉大夏が深く信頼した。騰驤四衛の勇士は定員三、四萬人だがおおむね名ばかりで、年に銭穀数十萬を空費し、多くは宦官の家に入っていた。廷臣がたびたび調査を請うたが、そのつど妨げられた。
  • 𢎞治十八年(1505年)、熊繡に整理が命じられたが、終わらぬうちに孝宗が崩じ、朝政は次第に変わった。熊繡は意に介さず押し通して、詐って名を連ねていた者一萬四千人を摘発した。御馬太監の寗瑾らが疏で旧に復すよう請うと、給事中・御史が章を交わして弾劾し、劉大夏も力争したので、武宗はやむなくこれに従ったが、寗瑾らは宥して問わなかった。
  • 正徳元年(1506年)、右都御史に抜擢され、両廣の軍務を總督し巡撫を兼ねた。鎮に着くと幕府の供応をすべて削り、秋毫も取らなかった。正徳二年(1507年)、總兵官の伏羌伯毛鋭とともに賀縣の獞を討ち平らげた。
  • 劉瑾は先の勇士の整理の件で熊繡を深く憎み、探りを入れたが落ち度が得られず、召して南京都察院の事を掌らせ、ほどなく中旨で罷めた。さらに延綏の倉の備蓄が湿って腐った件を持ち出して熊繡の罪とし、米五百石を罰して自ら辺に運ばせたので、熊繡の家はついに破れた。
  • 正徳十年(1515年)閏四月に卒。子がなかった。巡撫の秦金がその清節を朝廷に称え、刑部尚書を贈られた。太僕少卿の何孟春は、熊繡の跡を継いだ孫が幼くて貧しく扶養の手立てがないので、主事の張鳳翔・孔琦の例にならって月々の廩を賜り、あわせて諡を賜るよう請うた。そこで諡を莊簡とし、その孫に米を月一石給した。