明史卷一百八十五 列傳第七十三 李介

敢言と辺務

  • 李介は字を守貞といい、高密の人である。成化五年(1469年)の進士で、庶吉士に選ばれ、御史に改められた。兩浙の鹽を巡り、帰って河南道の事を掌った。四方の災害にちなんで時政数事を陳べ、帝は多く採用した。
  • 李介は敢言で、不当な事に遇うたびに同僚を率いて論奏したが、帝の意に逆らって二度も庭で杖たれた。
  • 九年の任期が満ちて大理丞に抜擢され、少卿に進んだ。𢎞治と改元されて右僉都御史に遷り、宣府を巡撫し、まもなく召されて都察院の事を掌り、兵部の左侍郎・右侍郎を歴任した。
  • 𢎞治十年(1497年)夏、北の寇が大同を侵そうと謀ったので、李介に左僉都御史を兼ねさせて軍餉を監督し、あわせて経略させた。着いたときには寇はすでに退いていたので、大いに軍備を修め、官田や牛具に対する銭を調べて軍に返し、その資で軍が滞納していた馬価を償わせた。辺境の人々は感激して喜んだ。前後して便宜二十事を条上した。没して尚書を贈られた。

李昆(李介の子)――附伝

  • 子の昆は字を承裕という。𢎞治の初めの進士で、禮部主事を歴任した。中官の何鼎が建言して獄に下されたとき、臺諫が救おうとしてみな責められた。昆はさらに論救したが、聴かれなかった。父の喪で帰り、起用されて兵部主事に改められた。帝が城外に延壽塔を建てようとしたときも、昆はまた疏を上げて諫めた。
  • 正德の初め、小人どもが権を握ると、邪曲の者を退けて忠直の者を進めること、宦官・外戚の願い出を杜ぐこと、内外の濫費を節することを請うたが、いずれも返答がなかった。員外郎に進み、尚書の劉宇に逆らって解州の知州に貶され、たびたび遷って陝西左布政使となった。
  • 正德十年(1515年)、右副都御史として甘肅を巡撫し、総督の彭澤とともに哈密を経略した。兵部尚書の王瓊が彭澤の処置が当を失したと弾劾し、言葉が昆にも及んで役人に下された。法司は、昆は謀をめぐらして強敵を食い止めた功があり、覆い隠せないと述べたが、王瓊は従わず、浙江副使に謫せられた。
  • 世宗が立って王瓊が罪を得ると、昆はあらためて順天を巡撫し、まもなく召されて兵部右侍郎となった。嘉靖の初め、左侍郎に改められた。大同で軍が乱れて巡撫の張文錦を殺したとき、昆は命を奉じて赴いて撫し、権限を用いて特別に赦した。帰ってから張文錦を弔い恤むよう請うたが、帝はちょうど張文錦が変を招いたことを憎んでいたので従わなかった。病を得て帰り、久しくして没した。