河南巡撫と王府との軋轢
- 徐恪は字を公肅といい、常熟の人である。成化二年(1466年)の進士で、工科給事中を授けられた。中官が抽分厰の管理に出ようとしたとき、徐恪らは疏を上げて争った。中官は怒って、すぐに徐恪らを派遣してその罪をあら探ししようとしたが、何も得られずやめた。
- 出て湖廣左參議となり、河南右參政に遷った。陝西が飢えて粟数万石を輸送すべきところ、徐恪は道が遠いとして代金で納めるよう請い、上下ともに便とした。
- 𢎞治の初め、左布政使・右布政使を歴任した。徽王府の承奉司が制に違って吏を置いたのを徐恪が廃したところ、王が徐恪の侵犯・侮辱を奏したが、帝は書を賜って王を戒めた。
- 黄河が移って開封に迫ったとき、藩府と三司を許州に移そうと議する者があったが、徐恪は不便であると述べ、取りやめとなった。
- 𢎞治四年(1491年)、右副都御史を拝してその地を巡撫した。奏して言った。秦の項梁、唐の龎勛、元の方谷珍の輩は、いずれも東南から起こった。今、東南の民力はすでに尽き、水旱が重なって襲っている。昨冬、彗星が天津を掃き、呉越の地に当たった。織造の内臣を召し返し、巡撫・巡按の諸臣に敕して心を込めて撫育させ、異変を消されたい、と。帝は従わなかった。
- 先例では王府に大喪があると中官を遣わして祭らせ、通過する先々で民を騒がせていた。成化の末になってようやく王府の承奉に行わせることとしたが、帝が即位してまた元に戻していた。徐恪は先帝の制のとおりにするよう請い、あわせて冗官を汰めること、賦税を整理すること、搾取を禁ずること、贖罪の例を定めること、抽分を廃することなど数事を条上し、多くは議して施行された。
- 戶部が滞納の督促を急いだときは、徐恪は災変を理由に緩めるよう請うた。御史の李興が鄖陽に別に三司を設け、南陽・荊州・襄陽・漢中・保寧・夔州を割いて属させるよう請うたときは、徐恪は五つの不可を陳べ、取りやめとなった。
- 徐恪はもとより剛正で、赴任先ごとに豪族を抑え奸弊を除いた。巡撫となってからは管内に王府が多いので法の適用がとりわけ厳しく、宗室の人々の多くは快く思わなかった。平樂・義寧の二王はついに、徐恪が禄米を減らし校尉を入れ替えたことなどを訐発した。取り調べても証拠はなかったが、徐恪が王府に入るとき誤って端禮門を通ったことを咎めて、二王の憤りを宥めようとした。帝は徐恪に他意がないと知りながら、二王が幼いことから敇を下して厳しく責め、湖廣巡撫の韓文と任を交換するよう命じた。吏民は市を閉ざし、泣きながら数十里も絶えずに見送った。属吏が余った公金を餞別としたが、振り払って去った。
- 着任すると、ちょうど岐王が封国に赴くところで、勅使が塩数百艘を携えて民に押し売りしようとしていた。徐恪に押さえられて実行できなかったので、その一党はひそかに帝に讒言を構えた。一年たって中旨によって南京工部右侍郎に改められた。徐恪は上疏して言った。大臣の登用は廷推から出るべきである。伝奉によって得た者があるとは聞いたことがない。臣は生涯、他の途によって進むことを敢えてしない。罷免を賜りたい、と。帝が慰留したので、そこで命を拝した。権勢家がみだりに工匠を求めたときは、ことごとく突っぱねて与えなかった。
- 𢎞治十一年(1498年)、考績のため都に入って病を得、ついに致仕して没した。