明史卷一百八十五 列傳第七十三 梁璟

言官としての諫争と地方の治績

  • 梁璟は字を廷美といい、崞縣の人である。天順八年(1464年)の進士で、兵科給事中を授けられた。成化年間にたびたび遷って都給事中となった。
  • 項忠が荊襄を征して流民を追い立てて生業に復させたとき、梁璟は、兵を放って追い詰めたことは賊よりむごいと弾劾した。この件は項忠の伝に詳しい。
  • 延綏で用兵があり、山西に秣と粟を前もって徴させたので、民は次々に逃亡した。梁璟が疏を上げてその困窮を陳べたところ、寛減が認められた。
  • 畿内の八府はもと巡撫一人だけを置き、薊州に駐して辺境を防いでいたので、兼ね顧みることができなかった。梁璟は、順天・永平の二府に別に巡撫一人を置いて薊州の辺務を属させ、巡撫の陳濂にはもっぱら保定の六府を撫させて紫荊などの諸関を兼督させるよう請い、朝議は従って定制となった。
  • のち、同僚の韓文・王詔らとともに、致仕した尚書の王竑・李秉の起用を奏請し、都御史の王越を斥け、あわせて後宮の隠し事にまで言及したので、文華殿で杖たれた。
  • 武靖伯の趙輔は西征で戦おうとせず、病と称して帰還を求めながら、また営府の事を掌ろうと図った。梁璟らがその罪を極論したので、病を養わせて帰らせた。
  • 九年の任期が満ちて陝西左參政に抜擢され、洮州・岷州を分守した。西番が侵入すると、兵を督して首魁を斬った。母の喪が明けてもとの任に戻り、左布政使・右布政使を歴任した。前後して陝西にあること十五年、政績が多かった。
  • 孝宗が即位すると右副都御史に遷り、湖廣を巡撫した。𢎞治二年(1489年)、民が飢えたので、両京への漕糧八十九万余石の徴収免除を請い、従われた。
  • 帝の登極の詔書はすでに四方の定額外の貢献を廃していたが、武當山を提督する中官がなお黄精・梅・筍・茶芽などを貢していた。武當の道士は先には四百人であったのが、このとき倍になり、得度させた道童はさらにその倍で、みな官の衣食を受け、月々の油・蠟・香・紙、掃除の夫役は千を数えた。中官の陳善はさらに道士三十余人を連れ、それぞれに護持の敕を持たせ、行く先々で威を張って横暴を働いた。梁璟はいずれも奏して停止を請い、多くは採納された。
  • 父の喪が明けて再び四川を撫した。𢎞治七年(1494年)、召されて南京吏部右侍郎を拝し、久しくしてその地で戶部尚書に進んだ。致仕して帰り、没した。

王詔――附伝

  • 王詔は字を文振といい、趙の人である。生まれつき異なる姿があり、學士の曹鼐が非凡と見て娘を嫁がせた。天順の末に進士に登り、工科給事中を授けられた。
  • 睿皇后が崩じたとき、秋の太廟の享祭に当たった。当時の議は、卑をもって尊を廃すべきではないとした。王詔は、礼には喪があれば祭らぬとあり、やむを得ないなら日を移して除服を待つべきだと述べた。議は行われなかったが、識者は是とした。
  • 牧馬の草場を検分し、會昌侯の孫繼宗、撫寧侯の朱永が侵占した罪を弾劾した。当時、地方官に欠員があり、京の三品の卿官に推挙させることになったが、王詔は競争の風を長ずる恐れがあると述べ、聴かれなかった。
  • 官を重ねて都給事中となった。成化八年(1472年)七月、敕によって隆善寺を修め、竣工すると工匠三十人に官が授けられ、尚寶少卿の任道遜らも碑を書いたことでみな昇進した。王詔は上疏して力を尽くして諫めたが、取り上げられなかった。
  • のち、梁璟らとともに後宮の事に言及すると、帝は大いに怒って文華殿に召して面と向かって詰問した。王詔は仰いで「臣らの言葉は当を得ていないかもしれませんが、ささやかな犬馬の誠にすぎず、ただ国のためと存ずるのみです」と叫んだ。そこで杖たれたうえで釈された。
  • 出て湖廣右參政となった。原傑が荊襄を経略したとき、王詔は補佐して功が多かった。父の喪で去り、服が明けて再任し、右布政使に遷った。
  • 𢎞治元年(1488年)、貴州左布政使に転じ、その冬、右副都御史として雲南を巡撫した。土官が世襲を争うのを好み、担当の役所は賄賂を受けて曲直を乱し、辺患を生じていた。王詔は贈り物を一切通さず、すべて法によって断ち、あわせて弊政で不都合なものを除いたので、諸夷は帰順し、辺境は静まった。もとの官で帰れなくなった者があり、その妻子の多くが奴婢として売られていたが、王詔は路銀を出して送り帰し、帰り着いた者は多かった。
  • 洪武年間、尚書の呉雲が王禕に続いて事に殉じたが、のちに王禕は忠文と諡されて毎年祀られながら、呉雲には及ばなかった。王詔がこれを請うたので、呉雲に忠節と諡し、王禕とともに祀ることとなった。
  • 𢎞治四年(1491年)、召されて南京兵部右侍郎を拝したが、着任しないうちに没した。