工部尚書としての抑制
- 曾鑑は字を克明といい、その先祖は桂陽の人であったが、戍籍によって京師に住んだ。天順八年(1464年)の進士で、刑部主事を授けられた。通州の民十余人が盗賊として罪に問われ、獄はすでに成立していたが、曾鑑はその冤を明らかにし、まもなくはたして真犯人が捕らえられた。
- 成化の末に右通政を歴任し、官を重ねて工部左侍郎となった。𢎞治十三年(1500年)、尚書に進んだ。
- 孝宗の在位が久しく、天下は生業を楽しんでいたので、内府の御用の調達も次第に広がった。司設監が龍毯・素毯百枚余りの改造を請うたとき、曾鑑らは言った。毯は一つの品にすぎないが、毛や獣毛を山西・陝西から徴し、綿糸などの材料を河南から採り、工匠を蘇州・松江から召し、年をまたいで労と費用は百方に及ぶ。中止を賜りたい、と。聴かれなかった。
- 内府の針工局が幼い工匠千人を採るよう乞うたとき、曾鑑らは言った。かつて尚衣監が工匠千人を採ると、兵仗局がこれに倣って二千人まで採り、軍器局と司設監がまたこれに倣ってそれぞれ千人を採った。弊の源がひとたび開かれれば、その流れは止まらない、と。そこで半分に減らすよう命じられた。
- 太監の李興が元宵の花火の調達を請うたとき、削減の詔があったので、曾鑑の奏によってすべて廃止された。
- 𢎞治十六年(1503年)、帝は諸大臣の言を容れて織造の中官を召し返した。中官の鄧瑢が願い出ると帝はまた許したが、曾鑑らが極言したので、三分の一を減らすよう命じられた。
- その冬、諸省でちょうど用兵があり、しかも水旱と盗賊が多いとして、諸々の営繕および翌年の花火、龍虎山の上清宮の工事の中止を乞い、帝はいずれも従うと答えた。
- 正德元年(1506年)、雷が南京の報恩寺の塔を震わせ、守備中官の傅容が修理を請うた。曾鑑は、天心が戒めを示しているのだから、重ねて土木を興して民力を労すべきではないと言い、取りやめとなった。
- 御馬監太監の陳貴が馬房の移転を奏し、欽天監の官である倪謙が実地を見て賛成した。給事中の陶諧らが陳貴は公を借りて私を営むと弾劾し、あわせて倪謙の追従を弾劾したが、聴かれなかった。曾鑑は執奏して、馬房はみな欽天監が実地を見て造営したもので、その後に恣意的に増設したものは取り壊して改めさせ、修繕はみずからの費用で行わせれば、牧養にも差し支えなく民も労さないと述べ、許可された。
- 内織染局が蘇州・杭州の諸府で織造を開き、上供の錦綺二万四千余りを求めたときは、曾鑑が力を尽くして中止を請い、三分の一半を減らすことができた。太監の許鏞らがそれぞれ敕を携えて浙江の諸所で木材を伐り出して運ぼうとしたのも、曾鑑の言によって取りやめとなった。
- 孝宗の末には内閣・六部の大臣がいずれも当代の精選であり、曾鑑もまた正道を持した。韓文らとともに宦官の誅殺を請うて容れられなかったとき、留任した諸大臣はおおむね柔順にふるまって禍を避けたが、曾鑑だけはもとの操を守った。
- 皇親の夏儒に邸を賜る詔があったとき、帝はその狭さを嫌って拡張しようとしたが、曾鑑が力を尽くして争ったので従われなかった。
- 翌年(正德二年、1507年)春、中官の黄準が鳳陽の守備となり、その願いによって旗牌を賜ることになった。曾鑑らは、旗牌は大将が出征するときと諸辺の守将にあるもので、内地の守備には先例がないと述べ、取りやめとなった。その年の閏正月に致仕し、まもなく没した。太子太保を贈られた。