明史卷一百八十五 列傳第七十三 張悅

剛直と吏部・兵部

  • 張悅は字を時敏といい、松江府華亭の人である。天順四年(1460年)の進士に挙げられ、刑部主事を授けられ、員外郎に進んだ。
  • 成化年間に出て江西僉事となり、浙江の学校監督に改められた。請託を強く拒み、士を試験するのに答案の名を糊で隠さず、「私は自分が信じられればそれでよい」と言った。
  • 四川副使に遷り、按察使に進んだ。喪に遭い、服が明けて湖廣に補された。王府の承奉である張通が横暴であったので、張悅は法によって取り締まった。入覲したとき、中官の尚銘が東厰を監督しており、人々は競ってその門に走ったが、張悅だけは行かなかった。尚銘は深く恨んで探りを入れたが、何も得られなかった。尚銘が失脚すると、召されて左僉都御史を拝した。
  • 孝宗が立つと工部右侍郎に遷り、吏部左侍郎に転じた。王恕が尚書であったので、張悅はこれを補佐し、二度にわたって銓選の事を代行した。
  • 𢎞治六年(1493年)夏、大旱で言を求められたとき、旧来の章程に従うこと、小民を憐れむこと、質素を尊ぶこと、無駄な食い扶持を削ること、みだりな罰を禁ずることなど数事を陳べ、さらに徳を修め治を図る二疏を上げ、いずれも嘉納された。
  • まもなく南京右都御史に遷り、その地で吏部尚書に改められた。𢎞治九年(1496年)、さらに兵部に改められ機務に参贊した。高齢に達したとしてたびたび疏を上げて辞職を乞い、詔によって太子少保を加えられ、伝馬で帰った。没後、太子太保を贈られ、莊簡と諡された。

張鎣――附伝

  • 当時、張悅と同郷で、先に南京兵部尚書となっていた者に張鎣がいる。字を廷器といい、正統十三年(1448年)の進士である。景泰の初めに御史に抜擢され、江西副使・按察使、陝西左布政使を歴任した。
  • 成化三年(1467年)、右副都御史として寧夏を巡撫した。寧夏の城は土築きであったが、張鎣が初めて甎で覆った。黄河の水を引いて靈州の屯田七百余頃を灌漑した。
  • 父の喪で去り、服が明けて起用され河間の諸府を撫し、大同に移り、刑部の左侍郎・右侍郎を歴任した。成化十八年(1482年)、同部の尚書に抜擢され、翌年、太子少保を加えられ、そのまた翌年、再び喪で帰郷した。𢎞治元年(1488年)、南京兵部尚書に起用され、官にあって没した。太子太保を贈られ、莊懿と諡された。