「硬黄」と呼ばれた剛直
- 黄紱は字を用章といい、その先祖は封邱の人であったが、曽祖父が平越に移ってそこに家した。正統十三年(1448年)の進士に登り、行人に任じられ、南京刑部郎中を歴任した。剛直・清廉なので、人は「硬黄」と呼んだ。大悪人の譚千戶なる者が民の蘆場を占拠して誰も問い質せなかったが、黄紱は取り上げて民に返した。
- 成化九年(1473年)、四川左參議に遷り、久しくして左參政に進んだ。管内を巡って崇慶に至ったとき、輿の前に旋風が起こって進めなかった。黄紱は「これは必ず冤罪がある。私が裁いてやろう」と言うと、風はたちまち散じた。州に着いて城隍神に祈ると、夢に州の西の寺のことを告げるようなものがあった。その寺は州から四十里、山に寄りかかって巣とし、後ろは巨大な池に臨んでいた。僧は夜に人を殺して池に沈め、その財を分け、また多くの婦女を洞窟に隠していた。黄紱は吏と兵を出して包囲し、徹底して問い詰めてその実情を得、僧を誅してその寺を毀った。
- 倉の吏が皇親を頼りに官糧を巨万も横領していたが、黄紱は追及して法どおりに処断した。威令は管内に行われた。
- 四川・湖廣の左布政使・右布政使を歴任し、上奏して建昌の銀鉱を閉ざした。両京で工事が興ったとき、湖廣は銀二万を納めるべきで、例では民から徴していたが、黄紱は庫の余剰でこれに充てた。荊王が先祖の墳墓を移したいと奏したときは、民の煩いになることを恐れて不可と主張した。
- 成化二十二年(1486年)、右副都御史に抜擢されて延綏を巡撫した。參將の郭鏞、都指揮の鄭印・李鐸・王琮らを弾劾して罪に当て、計略をめぐらして奸豪の張綱を捕らえ、軍令を明らかにし、墩堡を増設したので、辺政は一新した。
- 外に出て士卒の妻が衣も身体を覆えないさまを見て嘆き、「健児の家がこれほど貧しいのに、どんな顔をしてその上に臨めようか」と言い、ただちに三か月分の兵糧を前もって支給し、みずから慰撫した。ちょうど庵や寺を毀てとの詔があったので、黄紱は尼をことごとく還俗させて妻のない壮士に与えた。黄紱が去るとき、多くが子女を連れて道で拝して見送った。
- 𢎞治三年(1490年)、南京戶部尚書を拝した。言官は黄紱の昇進があまりに急だとしてしきりに言い立てたが、帝は聴かなかった。その地で左都御史に改められ、勤務歴の帳簿を庭で焼いて「事は適任の人を得ることが大事なのだ。年功や勤続の長短が官を立てた本意であろうか」と言った。
- 黄紱は官歴四十余年、性質はせっかちで人を容れられなかったが、行いは潔白で、赴任先ごとに功績を立てた。𢎞治六年(1493年)に辞職を乞い、まだ発たぬうちに没した。