明史卷一百八十五 列傳第七十三 賈俊

工部尚書としての節減

  • 賈俊は字を廷杰といい、束鹿の人である。郷挙から国学に入り、天順年間に選ばれて御史を授けられ、浙江・山西・陝西・河南・南畿を巡按し、行く先々で名声があった。
  • 成化十三年(1477年)、山東副使から飛び越えて右僉都御史を拝し、寧夏を巡撫した。鎮にあること七年、軍民は生業を楽しんだ。召されて工部右侍郎となった。二十一年(1485年)、敇を奉じて河南の飢饉を救い、まもなく左侍郎に転じ、数か月で尚書を拝した。
  • 当時はもっぱら進士が重んじられ、挙人で六卿に至る者はいなかったが、賈俊だけは重い名望によってこれを得た。孝宗が即位すると、尚書の王恕・李敏・周洪謨・余子俊・何喬新、都御史の馬文升はいずれも当時の名声ある人々であったが、賈俊はその中にあってもよく職務に称った。
  • 諸王府の邸宅や墓所はすべて官が代価を支払い、儀仗も折々に修繕していたので、内官監はしきりに大工事を起こそうとした。賈俊は言った。王府にはすでに禄米と荘田があるので、代価は半分を給されたい。儀仗はひどく傷んだのでなければ役所を煩わせないようにされたい。公家が営むべきものは倉庫と城池だけで、他はみな停止すべきである、と。帝は許可した。
  • 𢎞治四年(1491年)、中官が沙河橋の修理を奏し、京軍二万五千および長陵の五衞の軍を役に充てるよう請うた。内府の寶鈔司は工匠の増員を乞い、浙江および蘇州・松江の諸府がちょうど水害に遭っているのに織造の錦綺は数万匹に及んだ。賈俊はいずれも執奏し、ともに取りやめとなった。
  • 工部の政務は内府の監・局と表裏をなし、とくに内官監がもっぱら工役を統べるので職掌が深く関わっていたが、賈俊はこれに屈しなかったので、工役は大いに減った。
  • 太廟の後殿が完成すると太子少保を加えられた。足の病で致仕し、詔によって伝馬で帰ることを許され、夫役と廩米は制のとおりであった。一年余りで没した。賈俊は清廉・謹慎で、工部にあること八年、名望は朝野に信頼された。

劉璋――附伝

  • 賈俊の後任となったのは劉璋である。字を廷信といい、延平の人である。天順の初めの進士で、内外の官を歴任して名声があり、工部にあってもたびたび異議を唱えた。名は賈俊に次いだ。