明史卷一百八十五 列傳第七十三 李敏

篇首の立伝者一覧

  • 李敏
  • 賈俊(劉璋を附伝する)
  • 黄紱
  • 張悅(張鎣を附伝する)
  • 佀鍾
  • 曾鑑
  • 梁璟(「王」を附伝する。底本の割注はこの一字だけで、本文に附伝される王詔の名が欠けている)
  • 徐恪
  • 李介(子の昆を附伝する)
  • 黄珂
  • 王鴻儒
  • 叢蘭
  • 吳世忠

出自と地方官の治績

  • 李敏は字を公勉といい、襄城の人である。景泰五年(1454年)の進士で、御史を授けられた。
  • 天順の初め、敕を奉じて貴州の蠻を撫定し、帰って畿内を巡按した。薊州への兵糧の輸送路が海口を経るため転覆・水没が多かったので、別に三河から薊州に達する路を開いてその険を避けるよう建議し、軍民は便とした。
  • 成化の初め、推薦によって飛び級で浙江按察使に遷り、再び湖廣に任じ、山西・四川の左布政使・右布政使を歴任した。
  • 成化十三年(1477年)、右副都御史に抜擢されて大同を巡撫した。敵の騎兵が塞下に出没して墩台を守る兵を殺したので、李敏は壮士を伏せて急襲し捕らえた。土塁と塹壕を修めたので、敵は侵せなくなった。
  • 成化十五年(1479年)、召されて兵部右侍郎となり、四年を過ぎて病で帰郷した。河南が大飢饉となると救荒の数事を条上し、詔によって左副都御史として保定の諸府を巡撫した。二十一年(1485年)、漕運の監督に改められ、まもなく召されて戶部尚書を拝した。

北方の税の銀納と皇荘の弊

  • これより先、李敏は大同にいたとき、山東・河南から兵糧を運んで来る者が、道が遠くて損耗が大きいのを見た。そこで年ごとの支出を計算したうえ、それ以外はすべて銀で納めさせた。民は身軽に運べて届きやすく、将士はその余りで軍装を整えられたので、双方とも便とした。
  • このとき、あわせて畿内・山西・陝西の州県が毎年、諸辺に納める糧について、糧一石につき銀一両を徴し、その十分の九を辺境に送って時価により軍餉に折り替え、余りがあれば買い上げて軍事の備えとするよう請うた。帝は従った。これより北方の夏税・秋糧がいずれも銀納となったのは、李敏から始まる。
  • 崇文門の宣課司の税は多く権勢家に食い荒らされていたので、李敏は馬文升の言によって御史と主事を増設して監視させるよう請うた。御史の陳瑤は李敏を「取り立てを事とする者」と非難した。李敏は再び疏を上げて辞職を求めたが、帝は慰留した。
  • 貴戚が空地および鷹房・牧馬場の千頃を求めたときは、李敏は不可として譲らず、この件は取りやめとなった。
  • 憲宗の末には、中官や佞幸の者が多く荘田を賜っていたが、罪を得るとおおむね辞退して官に返し、罪の重い者は没収された。しかしそれを民に賦課することはなかった。李敏は小作人を募って一畝につき銀三分を課すよう請い、帝は従った。しかし他の荘田は従来のままであった。
  • ちょうど京師で大水が出たので、李敏はその害を極言して言った。今、畿内の皇荘は五か所で土地は一万二千八百余頃、勲戚・中官の荘は三百三十二か所で土地は三万三千百余頃ある。官校は無頼を集めて荘頭とし、家畜や産物を暴力で奪い、人を殺し婦女を辱めている。民心は痛み傷つき、災異はここから生じる。皇荘は正統年間に始まり、諸王がまだ封ぜられていないあいだ、空いた土地に荘を立てたもので、王が封国に赴けば土地は官に返した。その後これが慣例となったのである。普天の下、王土でないものはない。どうして皇荘が必要か。ことごとく荘戶を廃し、民に耕作を賦課して一畝あたり一律に銀三分を徴し、諸宮の費用に充てれば、皇荘の名はなくとも用は足りる。権要の荘田についても、小作人を選んで受け持たせ、役所がその課銀を収め、諸家に受け取らせるようにされたい。民心を喜ばせ和気を招くのに、これに勝るものはない、と。当時は用いられなかった。
  • 南京の御史と守備太監の蔣琮が互いに訐発したとき、御史はみな逮捕・左遷され、蔣琮は職にとどまった。李敏は再び疏を上げて力を尽くして争ったが、いずれも聴かれなかった。
  • 𢎞治四年(1491年)、病を得て辞職を乞うた。帝は医者を遣わして診療させたが、なお強く請うたので、葉淇を後任とし、詔によって李敏は伝馬で帰ることになった。家に着かぬうちに没した。太子少保を贈られ、恭靖と諡された。
  • 李敏は生涯、行いと義理に篤く、得た俸禄や下賜品はすべて兄弟や旧友に分け与えた。郷里にいたころ紫雲山の麓に家を築き、書を数千巻集めて学ぶ者と講習した。大同を巡撫したとき、これを疏して官に納め、詔で「紫雲書院」の名を賜った。大同の孔子廟に雅楽がなかったのも、李敏の奏によって制のとおり頒給された。

葉淇――附伝

  • 葉淇は字を本清といい、山陽の人である。景泰五年(1454年)の進士で、御史を授けられた。天順の初め、石亨に讒言されて役人に下されて取り調べられたが証拠がなく、出て武陟の知県となった。成化年間に官を重ねて大同巡撫となった。
  • 孝宗が立つと召されて戶部侍郎となり、𢎞治四年(1491年)、李敏に代わって尚書となり、まもなく太子少保を加えられた。
  • 哈密が土魯番に陥れられ、守臣がその遺民に廩食を給して内地に住まわせるよう請うたとき、葉淇は「それは自ら禍を招くことだ」と言ってその奏を止めた。
  • 奸民が大名の土地を皇荘に献じたときは、葉淇は議して役所に返した。内官の龍綬が銀鉱の開発を請うたときは、葉淇は不可とし、帝は従った。のちに龍綬が長蘆の塩二万引を兩淮で売って織造の費用に充てたいと請うたときも、葉淇は力を尽くして争い、ついに容れられなかった。
  • 葉淇は戶部にあること六年、率直・剛毅で節を守り、国家のために財用を惜しむことができた。廷議が用兵を論ずるたびに不可と主張した。ただ開中の制を改めて淮の商人に粟の代わりに銀を納めさせたため、鹽課はにわかに百万に増えたが、すべて運司に納められ、辺境の備蓄はこれによって寂れてしまった。
  • 𢎞治九年(1496年)四月、辞職を乞うて帰り、没した。太子太保を贈られた。甥の䞇は進士で刑部右侍郎を歴任し、清廉な操守で知られた。