明史卷一百八十四 列傳第七十二 顧清

劉瑾との不和と嘉靖朝の建言

  • 顧清は字を士廉といい、松江府華亭の人である。𢎞治五年(1492年)に郷試の首席となり、翌年(1493年)に進士となって庶吉士に改められ、編修を授けられた。同年の合格者である毛澄・羅欽順・汪俊と互いに名節を励み合った。侍讀に進んだ。
  • 正德の初め、劉瑾が権を盗み、顧清と同郷の張文冕がその謀主となって、これに付いた者はたちまち高位に上ったが、顧清はまったく通じなかった。劉瑾は恨み、正德四年(1509年)、『會典』の小さな誤りを取り上げて諸翰林を降格し、顧清は編修に下げられた。さらに諸翰林は政務に通じていないとして外任および両京の部の属官に移され、顧清は南京兵部員外郎となったが、父の喪に遭って赴任しなかった。
  • 劉瑾が誅されると侍讀に戻り、侍讀學士に抜擢されて翰林院の事を掌り、まもなく少詹事に遷って経筵日講官に充てられ、禮部右侍郎に進んだ。当時すでに毛澄が尚書であった。顧清は恭しく協力して職を守り、前後にわたって皇太子の擁立を請い巡幸を止めるよう求めた疏を、都合十数通も上げた。
  • 世宗が即位すると、御史の李獻に弾劾されて罷免され帰郷した。顧清は学問が正しく行いは謹厳で、栄達に淡泊であった。郷里にあって推薦する者が相次いだが、いずれも留め置かれた。
  • 嘉靖六年(1527年)、老成で内閣に用いるに堪える者を挙げよとの詔があり、廷議は顧清にも及んで、南京禮部右侍郎とされた。
  • 上言して言った。錦衣衞の職は侍衛であり、祖宗の朝には機密の用でなければ派遣しなかった。正德年間には営繕の使いが四方に出て海内が騒然としたのは、陛下がみずからご覧になったとおりである。近ごろはさらに千戶を遣わして揚州の高瀹の私財をめぐる争いを調べさせ、その娘や女たちを囚えて残酷な仕打ちを尽くした。今後はすべて担当の役所に付し、旗校の派遣を止められたい、と。従われた。
  • たびたび疏を上げて病を理由に辞し、詔によって尚書に進んで致仕した。ちょうど表を奉じて都に入るところであったが、途中で没した。文僖と諡された。