劉瑾への拒絶と北巡の諫言
- 吳儼は字を克温といい、宜興の人である。成化二十三年(1487年)の進士で、庶吉士に改められ、編修を授けられ、侍講學士を歴任して南京翰林院を掌った。
- 正德の初め、召されて『孝宗實録』を修め、経筵に出仕した。劉瑾が権を盗むと、吳儼の家に財産が多いと聞き、人を遣わして良い官をちらつかせて誘ったが、吳儼は厳しく拒んだ。劉瑾は怒り、大規模な考課の折に群吏に讒言させて吳儼の官を罷めさせた。劉瑾が誅されると復職し、禮部の左侍郎・右侍郎を歴任し、南京禮部尚書を拝した。
- 正德十二年(1517年)、武宗が北に巡幸したとき、吳儼は上疏して切に諫めた。翌年、また諸大臣とともに上疏して言った。臣らは初め、車駕が昌平に行幸されると聞いて疏を具して極論したが、採られなかった。次いで居庸關を出て宣府に行幸されたと聞いた。宰輔も知らされず、群臣も従えず、三軍の士も護衞できなかったので、京師の内外は人心が動揺している。徐州・淮河以南は千里にわたる飢饉で、昨冬は雨雪の害があり、民には衣食がない。どうして彼らが盗賊にならないと保証できようか。防ぐべき寇はまだ遠く陰山に隔たっているが、思いがけぬ禍はあるいは身近な所から突然起こる。臣が大いに恐れるところである、と。返答はなかった。
- 正德十四年(1519年)、官にあって没した。太子少保を贈られ、文肅と諡された。