礼部尚書と番僧・番貢の統制
- 劉春は字を仁仲といい、巴の人である。成化二十三年(1487年)の進士及第で、編修を授けられ、歴任して翰林學士となった。正德六年(1511年)、吏部右侍郎に抜擢され、左侍郎に進んだ。
- 正德八年(1513年)、傅珪に代わって禮部尚書となった。淮王の祐棨、鄭王の祐檡はいずれも傍系から襲封しながら、佑棨は実父を「考」と称し、祐檡はさらに追封して廟に入れようとした。交城王の秉杋は鎮國將軍から爵を嗣ぎながら、その妹を県主に進めようとした。劉春はいずれも礼に拠って却け、そのまま例とされた。
- 帝は西域の僧を崇信し、常にその衣服をまとって内厰で法を演じさせた。綽爾吉鄂色爾という者があり、豹房に出入りして大德法王に封ぜられ、その徒二人を烏斯藏に帰らせるにあたり、大乘法王の例にならって國師の誥命を給し、年々入貢させ、あわせて茶を携えて行けるようにしてほしいと請うた。劉春は不可として譲らなかった。帝が再議を命じると、劉春は執奏して言った。烏斯藏は遠く西方にあり、性質はきわめて頑迷・粗暴である。四王を設けて撫化しているとはいえ、その入貢には必ず節度を設けて辺患とならないようにしている。もし茶を携えることを許し誥敕を給せば、万一、上の旨と偽って羌人を誘い、みだりに請願する者が出よう。従わなければ異俗の心を失い、従えば害を増す、と。奏が上がって、茶を携えることは取りやめとなり、誥命は結局与えられた。
- 劉春はさらに奏した。西番の俗は仏教を信ずるので、祖宗は前代の旧に従って烏斯藏の諸司および陝西の洮州・岷州、四川の松潘の諸寺を設け、番人を教化させ、朝貢を許した。貢期も人数もみな定めがある。ところが近ごろは諸番が僻遠なため真偽の別がつかず、中国の逃亡した罪人がその言葉を習って身を潜め中に紛れ込んでおり、また新たに寺を建てて額を請う者が多く、番貢は日ごとに増え、宴賞の費用がかさんでいる。その期限を厳しくし、人数を定め、寺ごとに勘合十道を給し、辺境の兵備には勘合の控え帳を置いて照合が一致して初めて送り出すことを許し、あわせて今後みだりに寺院を営むことを禁じられたい、と。許可された。
- 廣東布政使の羅榮らが入覲してそれぞれ鎮守の内臣が貢を行うことの害を述べると、劉春は累朝が貢献を停止・廃止した詔旨を列挙して上申し、あわせて四方の水旱・盗賊と軍民の困窮の状を述べ、諸々の鎮守の臣を罷めるよう乞うたが、容れられなかった。
- 劉春は礼を掌ること三年、旧来の典礼を慎んで守り、宗藩の封爵や婚姻の願い出、文武大臣の祭葬・贈官・諡号について、正したところが多かった。
- 喪に遭い、服が明けて南京吏部尚書に起用され、まもなく禮部尚書としてもっぱら誥敇の起草にあたり、詹事府の事を掌った。正德十六年(1521年)に没した。太子太保を贈られ、文簡と諡された。
- 劉氏は代々科挙で名を顕した。劉春の父の規は御史、弟の台は雲南參政、子の彭年は貴州を巡撫した右副都御史、彭年の子の起宗は遼東苑馬寺卿、起宗の子の世賞は廣東左布政使、台の子の鶴年は雲南布政使で清廉の誉れがあり、鶴年の孫の世曽は雲南を巡撫した右副都御史でビルマ征討の功があった。いずれも進士出身である。